月
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失ったところが痛むのだ ずくずくと際限なく 止まる事も埋める事も叶わずに やがて膿を出し腐り落ちて 最後に君を想うこの魂だけが むき出しになって残るに違いない 夏の夜独特のひんやりとした空気が降りる中、ぴんと張り詰めた空気を崩したのは、白外套の集団の中心の男だった。 斯斬も平均から見ると背が高い部類だが、さらに頭半分高くがっしりとした彼はその彫りの深い造作の所為かよりいっそう威圧感を伴い、彼自身を体格よりも一回りもニ回りも大きく見える。 じゃり、と鈍い砂利の音を響かせて前に進み出た彼に合わせて、白装束の男たちは無言で斯斬と累杷を囲んだ。 「随分と探したぞ…。実に2年もだ。元気そうで何よりだな、斯斬」 「…威灘様。」 男、累杷の兄・威灘の落ち着いた声音に怒気は無い。波の無い穏やかで低い声音は斯斬の記憶に在る上司のそれそのままだった。 進み出た威灘は黙りこくる青年を見、そしてその背後に隠れるようにしている少女を見下ろす。少女の紅の瞳に合わさった時、茶の瞳が懐かしげに細められる。 「累杷。ずっと心配していた。…帰ろう」 そう言って伸ばされた威灘の大きな掌には、けれど少女は手を伸ばさない。所在無く宙に出されたままの掌を見つめて、男は眉を潜める。 「…キヌも心配している。お前はキヌには何も言わずに出てしまっただろう?」 母の様に世話を焼いてくれた優しい女性の名に、斯斬の外套の袖を掴んでいた少女の指先が逡巡するように震えた。 累杷は過去のあの寒すぎる雪の日に、家の者誰にも別れを告げずに斯斬と旅に出た。幼い頃から世話を焼いてくれたキヌにも、そして実の兄である威灘にも。 追っ手を振り切る為とはいえ後悔があるかと言われれば、彼女は頷くだろう。けれど、あの当時の選択肢を思えば、累杷は躊躇い無く同じ行為を選ぶ。 彼女にとっての優先順位は、たとえ他の何を犠牲にしたとしても『斯斬』が一番最初に上がってしまうのだから。 「…行かない。帰らない」 少女は、差し出された兄の手を拒否した。代わりに斯斬の袖をより強く握り締める。 差し出されていた威灘の掌がぴくりと震えた。精悍な顔の眉間にしわが寄り、瞳が細められる。 「駄々を捏ねるな。帰るんだ!」 豹変するように語気荒く叫んだ直後、差し出された掌が怒鳴り声に身を竦ませた少女の手を乱暴に掴み取った。驚いた累杷が目を見開き、息を詰める。 彼女を守るように立っていた斯斬が腰の刀に手をかけた、が、…しかし、刃が閃くことはなかった。 「斯斬…ッ やだ、放して…!!」 強い力で青年の背後から引き離された累杷の、掴まれていない方の腕が斯斬へと伸ばされた。その先で、刀を抜こうとした体勢のまま、周りの男たちに押さえ込まれた斯斬が居る。 一瞬の出来事だった。 関節の処々を押さえられた上で数人がかりで押さえつけられて、そのまま乱暴に地面へと引き倒される。土を嘗めるような体勢で斯斬は歯軋りをして威灘を睨み上げた。 衝撃で彼の顔から落ちた銀縁の眼鏡が、足元で割れる乾いた音。 その音にはっとしたように、少女が眦を吊り上げた。 「斯斬を放せッ」 叫んだ少女の瞳が燃える様な血色に輝きだした直後に、シュウッと何かが焼ける様な音が辺りに響いた。 「きゃああああああっ」 甲高い悲鳴に、斯斬が目を見開く。 威灘の腕の中で一度のけぞり悲鳴を上げた後に、累杷はぐったりと動かなくなる。 男の触れている辺りから細い湯気のようなものが上がっているのを見て、斯斬は懇親の力でもがいた。微かに何かの焦げる臭いがそこから漂っている。 「なんて酷いことを…!」 その異臭に斯斬がきつく顔をしかめた。普段の能面のような表情が嘘のように、怒りと焦りを隠さずに怒鳴る。 「…自業自得だ。対妖用の法術を体中に書き込んでいる。私を攻撃しようと妖気を出したりしなければ、傷ついたりしなかった」 そう言い切った威灘の首元に、複雑な文字と紋を組み合わせた法術の筆跡がちらりと覗いた。恐らく首元だけではない体中に同じ文様がある。 法師が戦に出る際には標準的な装備とはいえ、対妖用の呪文に死人である累杷が触れたりしたら下手をすれば火傷どころでは済まない。強い毒と同じ、触れた部分は焼け爛れて崩れ落ちてしまうだろう。斯斬のよく知る他の妖と同じように。 それは十分承知しているらしく、威灘は服から覗く場所には一切紋を描いていない。そして、模様が直接少女触れないように細心の注意を払いながら、動かなくなった累杷を抱え上げた。 しっかりと支えた後に、砂利に押さえ込まれたまま動けない斯斬へとゆっくりと歩み寄る。 「あの雪の日の事を覚えているか?」 低い位置に押さえ込まれた斯斬の頭上に、ぽとりと言葉が落とされた。 暗く沈んだ声は、酷く抑揚に欠けている。斯斬が苦しい体勢で見下ろす威灘を見上げると、うつむき加減で祭の薄明かりさえ遮られた陰に浮かぶ彼の顔は、まったくの無表情だった。 元来から彼は表情が豊かとは言えない男だったが、そういった人間らしい硬さすらも無い、能面のような顔だ。 「……」 斯斬は答えない。 「私はお前を信用していたし、累杷が死んだ後のことをとても心配していた。たとえ妹という繋がりが無くなっても、私はお前を家族同様に扱いたいと思っていた」 独白の様に、話しかける抑揚の欠けた言葉にも、斯斬は答えなかった。 沈黙を嫌がるように、遠くで空の花が咲く。真昼の様に照らし出された一瞬に、何かを呼び覚まされたように威灘の目がきつく歪んだ。 ひゅっ と息を吸う音が響き、吐き捨てるように叫ぶ。 「だがお前は私を裏切った!」 初めて威灘の顔に明確な感情が浮き上がる。それは言葉に表すならば、軽蔑。あるいは、憎悪。 取るに足らないモノあるいは汚い何かを見るように、冷たくどこか燃える様な目で見下ろして、ぎしりと奥歯を噛み締める。 簾の様に顔の半分を覆った前髪の間から、斯斬の紺色の目はただそれを見つめて、 「累杷をどこに連れ帰るというのですか?」 漸く口を開いた。けれど、それは威灘の問いや激情に応えるものでは無い。 今度は威灘が黙り込む。その様子に重ねて、斯斬の声が再度問いかけた。 「…累杷は、今は妖です。都に帰る事は出来ない。何処に、連れ帰るおつもりなのですか?」 暗に、全てが遅いのだと。 全ては過去で、今は何もかもが変わってしまったのだと。 けれど静かに見る斯斬の瞳を見返して、威灘は唇をゆがめて微笑った(わらった)。声無く笑った。 「…帰るのさ。在るべき場所に」 激情も軽蔑も無い穏やかな声で、そう言い切った。 そのまま背を向けると、気を失った死人の少女を抱いて薄暗い境内を後にする。押さえ込まれた斯斬が何かを叫んでも、二度と振り返らなかった。 * * * 青年は、静かに歩き去る男の背中を何とも言えない複雑な気持ちで見つめていた。 彼は、歩き去る男も、暗い木立の向こうで土を嘗める体制で押さえ込まれた男も、二人共を長く尊敬していた。 変わってしまった後も、変わっていく男の下で働き続けていた。 いつか、元に戻る日が来ることを、願いながら。 けれど、彼は、彼の知らない彼の恐怖を 知っていた。 * * * 遠い雪の日。あの日振り返らずに、青年と少女は旅へと出た。 何もかもを捨てて、本当に欲しいものだけを抱いて。 それは逃げるようでもあった。 きっと無意識に気が付いていた。彼らが得たものは、やがて沢山のものを狂わせて、いずれは彼ら自身に牙を剥く事を、本能的に。 * * * ぎしぎしと車輪のきしむ音に、落ちていた少女の意識が呼び戻される。 頬に触れる上質の絹の感触に紅の瞳が見開かれた。同時に横たえていた身体を起こすと、赤布の張られた低い天井が目に入る。 見覚えのある、けれど見覚えの無いそこが狭い馬車の中だという事に、累杷は直ぐに気が付いた。 「ここは…?」 記憶の混乱に、うろたえて向かいを見れば、低い天井にいささか不自由そうに座る兄の姿があった。 懐かしい姿に一瞬で気絶する直前の光景が甦る。 「…斯斬は? 斯斬はどこ!?」 問いかけながら、上質の絹張りの椅子の上に身体を縮める。気絶する直前、兄の腕が回されていた腹部からわき腹に掛けてが鈍く痛んだ。 懐かしい兄を思い出す反面、累杷の中の妖の部分が、兄の持つ退魔師としての力に恐怖を覚えさせる。彼の身体に累杷が触れてはいけない恐ろしいものがある。それを本能が感じて、距離をとろうと少女を酷く焦らせた。 けれど、怯える累杷に困ったような苦笑で男は返した。 「余り暴れるな。馬が驚く。」 「嫌だ。斯斬はどこなの!?」 穏やかな兄の声に、昔ならとても安心できたのに。 今は焦燥しか感じることが出来ず、それを素直に累杷は表現した。ヒステリックな高い声で再度叫び、答えを待たずに馬車の扉へと手を掛けた。 窓の外の景色は後方へと流れていく森だった。馬車はかなりの速度で何処かへと走っている。 それに焦りはさらに酷くなり、少女は扉を押し開けようとした。 それにすかさず男の大きな手が掛かる。 「やめなさい。危ないだろう?」 「放して…!」 ジュッ…!! 払った瞬間に鈍い音が響いた。驚く威灘の前で、少女は言葉も無く焼けた手を抱きこむようにして身を屈める。 「累杷…! 何をするんだ。妖気を使えばどうなるかは先程良く分かっただろう?!危ないじゃないか…!」 手当てをするから手を出しなさい。 そう、矛盾する言葉を吐いて気遣うように震える妹の前で屈む男を、乱れた髪の間から覗いた紅色の瞳が見つめる。 「兄様…」 穏やかな兄の眼が、何故もこんなに不穏に見えるのか。 呟いた声には、ただ虚しさだけが漂い、不吉な馬車の軋みはより一掃酷くなる。 いつの間にか、外には冷たい雨が降り始めていた。 * * * 闇に消えた後姿を追って、斯斬は渾身の力でもがいていた。そんな彼を無言で押さえ込む男たちに、搾り出すような怒声を浴びせる。 「放せ!威灘様は累杷をどこへ連れて行くつもりなんだ? 『在るべき場所』とはどういう意味だ?!」 しかし主に忠実に従う彼らは誰一人斯斬の問いには答えない。ただ砂利を擦る耳障りな音が響く。 「威灘様は、妹君に無体な事など致しません。斯斬様もそのことは良くご存知でしょう」 沈黙に彼がもがき疲れてきた頃に、暗い木立の向こうから声が掛けられた。 やがて暗闇から青年が一人現われる。正確には、彼の部下と思われる二人の仮面を纏う男を影の様に連れて。 青年の白装束と、仮面装束の男たちに斯斬は見覚えがあった。そして、青年自身の顔にも。 「…久しいな。昇進したのか。」 「はい」 青年は斯斬の側まで歩み寄ると屈んで地面へと手を伸ばし、レンズに『ひび』が入った眼鏡を拾い上げる。白い外套の淵で土汚れをふき取って丁寧に斯斬へと差し出した。 斯斬を押さえ込んでいた兵が、青年に促されて押さえ込む形から拘束へと体勢を変えた。斯斬は依然苦しい体勢ではあったが、差し出された眼鏡を受け取ると静かに掛けなおした。 斯斬の動作を待ってから、再び彼は口を開く。 「斯斬さん、禁術書の在り処を教えてください。あの冬の日、貴方が研究院からアレを持ち出し、威灘様の妹君の遺体を連れ出した後、書は行方不明になってしまった。研究院はあれから血眼になって書を探しましたが、手掛かりすら掴めない。…僕は、貴方から隠し場所を聞き出すように威灘様から命を受けています」 かつて後輩であり、斯斬を慕って彼の元で細々とした雑務をこなしてくれていた彼は、今はかつての斯斬が着ていたのと同じ階級の法師服を着込んでいた。それは即ち、斯斬が欠けた穴をこのニ年間彼が埋めたという事だ。 そして背後に従えた仮面装束は研究院の処理班の制服。あの、暗く忌まわしい研究室の。彼らの持つ長い槍の先に塗られた毒の威力も、彼らが女子供にさえなんの容赦無く『処分』を下す事も、斯斬はよく知っている。 過去、その決定権を持っていたのは自分だ。そしてそれは今は元後輩が持っている。その意味を、彼は無言で示している。 「僕は貴方を今でも尊敬しています。貴方は、あの『書』を読み解いたのでしょう? だから、今の貴方が居る。 貴方は素晴らしい才能の持ち主だ。きっと、」 言葉は続かなかった。無言で見返す斯斬の沈黙に耐え切れないというように、彼は一度首を振ると、再度の質問を繰り返す。 「…教えてください。書の場所を」 何処か縋る様な訴えに、けれど斯斬は静かに首を横に振った。 「知らない」 その応えに青年が眉を潜める。 「知らないはずは無い。何処にあるのですか?」 「本当に知らないんだ。研究院へ忍び込んだあの夜の後、書は俺の知らないうちに何処かへと消えてしまった。俺は持ち出してはいない」 「そんな嘘は通じない! では、どうやって貴方は死人を甦らせたのですか?!」 噛み付くような問いに、青年は拘束された右手を持ち上げる。その指先を青年の視線が追う。指は、ゆっくりと斯斬自らの頭を差した。 「ここに、在る。 俺の知る書の存在場所は、『記憶』だ」 「……」 「俺の頭の中を取り出すか?」 後輩の青年は、どこか昔の幼い彼を残す頬を一度俯けて、やがて小さく首を振った。 そしてぼそりと呟く。『そんなことは無駄です』と。 そして、うつむいたまま、背後に気配無く佇む仮面装束に掌で合図を送った。 斯斬がそれに小さく目を見張り、直後に鈍い音と共に砂利がはじけ飛ぶ。 ぱらぱらと小石が零れる音に混じって、ズブリと生々しい生音が響いた。 沈黙を破って、突き下ろされた黒い槍が引き抜かれ、合わせて斯斬が小さく息を吐き出す。 胸元に空いた丸い穴は一瞬で、直ぐに噴出した生暖かい血が、少しだけ元後輩の白外套に跳ねた。 砂利が黒く濡れていき、そこに崩れ落ちた青年を見下ろして、彼は静かに目を伏せる。 ぽつぽつと、雨の粒が頬に当たった。夏らしくない冷たさ。 「…僕は知っています。どんな苦痛も貴方には意味が無い。貴方が気が狂うほどの痛みを支払って、威灘様の妹君を甦らせた…。」 それはあの日あの場所に居合わせた彼が、後輩である彼だけが知りえた、過去の光景。 それは今でも吐き気を覚えるほどに鮮明だ。 どんな痛みも苦しみも、彼を恐れさせないし、従えることも出来ない。 書の在り処を知らなければ処分しろ。それも命令だった。 けれど、真実はもっと酷だ。書は失ってしまったけれど、書の中身は斯斬が全て記憶していると彼は言う。研究院は容赦しないだろう。あの地下研究所の所業を思えば、どんな過酷な運命になるかは火を見るよりも明らかで。 ならば、敬愛する彼を、いっそ。 全てが歪んでいる。 吐き出された黒い血に染まった砂利を、指先が強く抉る、きしむ音が響く。 |
| 骨を晒し神経を剥きだしにすれば それで真実が知れると云うのでしょうか むき出しの心に きっと夜の雨は痛すぎる |
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