月
<回想> |
そのものの価値を知るのは 俺だけでいい 慰めや 諭しよりも 痛みだけが何よりも鮮明で さくさくと雪を踏む音だけが響く。 真っ黒な空から、冷たい雪の花がはらはらと舞い落ちていた。 雪を潰す軽い音以外何も無い世界を、ただまっすぐに進む。 ―どこへ? 気がつくと目の前には、研究院の固く閉ざされた門が有った。 * * * かくん、と、少女の首の力が抜けた後。 医師がそっと細い手首に触れると、威灘に向かって静かに首を振った。 間に合わなかった。終わってしまった。 覚悟はしていたものの、威灘はその大きな虚無感に体中の力が一気に抜けてしまったようにその場に項垂れた。 力及ばなかった自分を怒る気持ちも、情けないと詰る気持ちもまだ湧いてこない。ただ呆然とした痺れが脳を支配した。 斯斬は、妹の伴侶にと威灘が唯一認めた彼は、現状を理解したくないと訴えるように動かなくなった少女の身体を揺すりながら何度も名前を呼んでいた。 認めたくないのだろう。威灘以上に研究に打ち込んでいた彼には、なお更に。 「斯斬…」 真冬の寒気で少しずつ冷たくなっているだろう少女の身体を揺すり続ける彼を、そろそろ止めなければいけない。 今や何もかもが力無く沈黙した室内で、変わらずに動いているのは彼だけだった。誰も何も言えずに見つめる中で、ただひたすらに呼びかけ続ける彼が、見るに耐えない。 威灘は声をかけて気付かせようとしたものの、斯斬にはその声は届かなかったようだった。 「累杷? 累杷? 累杷? るいは? るいは、るいは、るいは..」 「斯斬…?」 静まり返った部屋で、恋人の名を呼び続ける彼の声に、不意に戦慄が走るような響きを感じた。威灘は眉を潜めて斯斬の肩に手を置く。 少女を見つめてうつむいたまま、揺する動きに合わせてゆらゆらと動く肩を起こしてやる。 抵抗無く持ち上がった青年の表情は酷く空ろだった。姿勢をずらされても、瞳だけは少女に固定されている。 そしてただ『名前』だけを繰り返す。 「斯斬?しっかりしろ。揺するのを止めるんだ。累杷は… もう死んでいる」 言いたくない言葉だ。 けれど、このままではこの男まで『向こう側』に引き込まれてしまいそうで、威灘は語気荒く斯斬にそう言った。 止まらない動作に舌を打ち、無理やりに少女の亡骸を奪い取ろうとする。 「ッ止めてください! 呼ばなかったら目を覚まさないじゃないですかッ!」 途端に非難を籠めた視線が威灘へと向いた。伸ばされた手から守るように少女を抱きしめて叫ぶ言葉は正気の沙汰ではない。 「呼んでも覚めない! ちゃんと見るんだ!」 呼んで覚めるのならそうであってほしい。 むしろ自分がそれを信じることが出来たらどんなに幸せか。苛立ちを籠めて怒鳴る。 「いいえ! 累杷は… …やめろ、放せ!!」 何かを言い返そうとした斯斬の体が羽交い絞めにされて、少女の亡骸から引き離される。 見かねた医師の指示か、男衆の数人に押さえつけられた青年は何か支離滅裂なことを叫んで、布団に静かに戻された亡骸に必死で手を伸ばしていた。 「別室へ運んで下さい。そしてこの包みを飲ませて…。 斯斬殿には休養が必要です」 「累杷ッ」 羽交い絞めにされて連れられていく斯斬の目は見開かれていて、振り乱された前髪の隙間から紺色の瞳が妙に強い光を帯びて亡骸を見つめていた。声が聞こえなくなる最後まで、少女の名前を呼び続ける。 ずるずる、ずるずると、亡骸から引き剥がされまいと足掻いた青年の爪先が嫌な音を立てていた。 音の元を見下ろすと、尋常ではない力で押さえつけた所為か、畳のイグサが引き攣れて毛羽立った跡を残していた。 身が凍るような執念。 その様を見送った威灘は、何か気持ちの悪い悪寒のようなものが身体を走るのを感じていた。 * * * 気がつくと、斯斬は降りしきる雪の中、今は殆どの人間が出払っている研究院の前に居た。 遠くに灯りが見える。しかし、この区画には誰も居ない。 斯斬はそこまでどうやって来たのか、もしやこの雪の中歩いて来てしまったのか、直前に一体何があったのか直ぐには思い出せずに居た。 呆然と荘厳な造りの門を見上げる。 ふいに、少女の口元からつるりと伝い落ちた、鮮やかな紅色が脳裏に蘇った。 (ああ。そうだ…) 俺は、累杷を救えなかった。 冷え切った顔面も手足も殆どの感覚を麻痺させていたが、ふいに目元がほんのりと暖かくなったのを感じた。 小さなぬくもりは頬を伝って顎にたどり着き、そしてすぅっと冷たくなっていく。 それが涙だと気付いても、斯斬は拭おうという気持ちにはならなかった。 ただ静かに、静かにこぼれて、外気に晒されて冷たく凍っていく。 一粒、一粒。冷えていく。凍えていく。 …なぜ、救えなかったんだろう。 寝る間も惜しんで、必死で研究に打ち込んだ長い時間。 解くことの出来ない封。読むことの出来なかった神の知恵。 …なぜ、亡くさなければならなかったんだろう。 笑っていた、泣いていた、怒っていた、温かかった。 桜の花びらが舞って、蛍が儚げに輝いて、紅葉が静かに散って、雪は音もなく降り積もる。 美しい季節をずっと一緒だった。体の弱い彼女と一緒に、彼女の箱庭を眺めた。 ずっと一緒に眺め続けて、巡る季節をきっとこれからも、 …これからも、ずっと、 『ずっと しぎりと いっしょに いたい』 彼女の願いも 俺の願いも たった一つだったのに。 るいはとおれは いっしょに みていく ぽたり。 最後の一粒が冷たく冷え切って、雪の中に落ちた。 それを見届けることなく、斯斬の足が再び降り積もった雪を踏みしめた。どれくらいの時間此処に立ち尽くしていたのか、動いた拍子に肩や頭に積もった雪がばらりと崩れ落ちる。 踏みしめた雪に重い水音が混じっていた。いつのまにか、重さの無い粉雪は、雨交じりの冷たい霙(みぞれ)になっていたらしい。 (間違ってる) (あいつが居なくなるなんて、間違っている。あってはならない。認めない。認めない。みとめない、みとめない…) 斯斬の足は迷い無く、研究院の門へと向かった。 * * * 「斯斬さん…?」 その日、斯斬の後輩である彼は深夜のその時間まで勤めていた。 日が落ちきった頃、彼の上司である男の妹であり、彼の先輩の許嫁である少女が危篤であると聞いて禁術研究を指揮する彼ら二人が出払ってしまった。結果的に滞った仕事は青年達下の者たちに残業を強いた。 けれど、関わりのある二人の大切な人の事だ。無事を研究院の暗い窓の外を眺めながら何度も祈った。 そうして漸く片付いた研究資料を『禁書』を収めた警備が一番に厳重なその場所へと持っていく途中に、青年はここに居るはずの無い人物を見つけたのだ。 遠目でも分かるひょろりとした長身の白いコートの後姿と闇にまぎれそうな黒い髪は、見慣れた先輩のそれ。まっすぐに向かう先が『禁書』の部屋であると気が付いて、もしや少女は辛うじて助かって、生真面目な彼は放り出した仕事の続きでもしに来たのかと、青年は一瞬思った。 しかしすぐにいぶかしむ。 何故なら彼は、この深夜に灯りも持たず、みぞれに濡れた外套も脱がずに暗い廊下を歩いていたからだ。彼の足跡を示すように、廊下には点々と小さな水溜りが出来ている。真面目な彼がこんな風に廊下を汚すなんてありえない。 「斯斬さん? どうされたんですか、こんな時間に。彼女は大丈夫だったんですか?」 呼びかけながら、青年は書類を抱えて走った。 そうしている間にも、斯斬は『禁書』の部屋の前に立って、その扉を押し開けようとしていた。 暗い廊下が青年の持つ灯りに照らされてゆらゆらとした影を残していく。ようやっと追いついて改めて斯斬の姿を照らし出してみて、青年の中での違和感はさらに膨れ上がった。 彼の敬愛する先輩は、外に降りしきる霙で濡れているどころではなく、どれだけ長時間外を歩いていたのかと思うほどに、文字通りの濡れ鼠だった。扉に手をかけて立っている現在も、服の端や髪の先から冷たい雫が滴って、足元に水溜りを作っている。 「馬車を使わなかったんですか…?!」 「…鍵を」 「え?」 驚く青年を無視して、斯斬はやたらと暗い声でぼそりと呟いた。青年の方を振り返る事は無く、扉、否扉の向こうの何かを睨むようにしたまま、手だけを青年の方へと差し出す。 「入り口で受け取らなかったんですか?」 『禁書』の部屋はもちろん、研究院の重要な区画に入るには鍵が要る。入り口で守衛から受け取るはずなのだが、斯斬はそれを忘れてきたのか。 彼らしくないうっかりに苦笑してから、青年は自分の持っていた鍵を差し出された手に手渡した。 ぬるり。 「?」 ふいに妙に濡れた感覚がして、青年は自分の掌を灯りで照らし出す。 その間にも、斯斬は迷うことなく鍵穴に鍵を差し込むと、『禁書』の部屋の扉を押し開けた。 黄色い光に浮かび上がった青年の指先には黒っぽいものが付いていた。覚えの無いものに疑問に思いながら指先を擦ると、ぬるりとした不快な感覚。まさかと鼻を寄せれば、鉄錆の臭い。 「斯斬さん…!?」 慌てて顔を上げる。扉が閉じられようとしていた。 青年の声に、初めて斯斬が顔を上げた。濡れた水の筋が銀縁の眼鏡を覆っていたが、その隙間から覗いた暗い群青の瞳は、無表情に青年を見やった。 そして一瞬の間の後に、くつり、とそれは笑みを浮かべたのだった。 「ありがとう」 バタン 笑みというには暗すぎるそれに一瞬肝を抜かれて硬直した青年の前で、無情に扉は締まった。重い音にはっとしてその表面を叩く。 「斯斬さん!?斯斬さん!どうしたんですか、この血は!?? 斯斬さん…!」 指先に付いた血はまだ生暖かくて、明らかに怪我をしているのだ。 それに動転して声をかけるものの、応えは返ってこなかった。 * * * 部屋に入った斯斬は、部屋の隅から火種を取り、部屋中の蝋燭に灯りをともしていく。 ひとつふたつ増えていくと、部屋の奥に安置されたそれが浮かび上がっていく。 全ての蝋燭を灯したところで、斯斬は静かに書を保護している硝子のケースを持ちあげて。 無造作にそれを床に投げ捨てた。 耳障りで甲高い音と共に、硝子のケースは砕け散る。 内側から鍵をかけてしまった扉の向こうで、後輩の青年の叫び声が聞こえたが、斯斬は全てを無視した。 他の扉は力ずくで何とかなったが、『此処』の扉だけは開けられなくて正直に困っていたのだ。丁度彼が来てくれた事には感謝した。そして用は済んだ。 今は、この『書』にだけ用がある。 神の知識とも魔の知識とも言われるこれには、ありとあらゆる『禁術』が書いてある。 中でも、絵空事といわれながら、反してこの『書』でなら絶対に分かると言われている術。 死者を黄泉から呼び戻す方法。 『反魂』。 方法事体は、虚言怪談交じりに語られている。 すなわち、 骨に灰と夜露を塗り、ハコベと白菊を焚き、新月より十五の夜呪を唱え 満月の元 想いの最も深い者の生き血を捧げれば、 やがてその者は黄泉より還りその瞳を見開くだろう。 と。 「けれど、実際にあれで成功した者は存在しない。口伝は不完全で、甦るのは生前の身体だけ。 魂の無い身体は時と共に衰えて、15日目の夜に灰になって崩れ去り、元の骨に戻る。」 そう、何かが足りない。それをこの『書』は教えてくれる。 艶かしい黒皮の表紙を指でたどると、筋のように赤い血が引いた。無理やりにいくつかの区画の扉を開いた際に、爪先が割れてしまった。冷え切った指の先のほうだけがずくずくとした熱さを訴えていたけれど、斯斬は気にも留めない。 『禁書』を初めて見た時の様な高揚感が胸を占めていく。自然と唇の端が上がり、喉の奥が震える。 今、彼は、『反魂の法』の最後のピースに触れているのだ。 そのピースが手に入れられることを、斯斬は何故か疑っていなかった。 黒皮に滴った血の雫が、ゆっくりと沁みる様に書に溶けていく。 ―ゴッ 途端、まるで見えない力に弾かれる様に、斯斬は書を収めた台から弾かれて、床に転がった。 砕け散っていたガラス片で頬や掌が切れ、灯した蝋燭が激しく揺れる。 ドクリと、本が脈打った。黒皮の表皮に刻まれた銀色の文字が、刹那青白い燐光のような光を浮かべる。 両腕を床に着き跪いた斯斬のうつむいた顔がゆっくりと上がった。 寒さか、それとも疲労でか青白くなった顔色の中で、そこだけ異様に輝く瞳は見開かれていて、瞳孔が小さく絞られている。 切れた頬から糸のように紅色が滴っても拭わずに、まっすぐに書を見上げた。 一度脈打ったものの、それっきり静かに納まっている『書』。けれど空気が違う。 そう… この『書』が『生きている』と言ったのは、何処の誰だったか? 「授けろ」 絞り出した声は枯れていた。ひゅうと空気を絡ませて呟いた声は静寂に吸い込まれるように消えていく。それに抗うように、次は腹の底から叫びをあげた。 床に爪を立てていた。ぎりぎりと。硝子が食い込む痛みなど感じない。 やがて、両腕が請うように『禁書』へと差し伸べられる。 「神でも魔でもなんでもいい。『書』よ。お前なら出来るだろう? 俺に、死者を。 累杷を取り戻す術を!!」 割れた爪先が、切れた掌が熱い血を絡ませている。 手首を伝って、紅を引くように腕を伝い落ちていく。まるで指先から斯斬の何かにひびを入れて侵食していくように。 今斯斬の肌に触れたものが居たならば、彼自身が死人であるような冷たさに驚愕したに違いない。けれど、髪を振り乱し、荒い呼吸を吐き出す彼の体の芯は燃え上がるように熱かった。意志が痛みや寒さを凌駕する。 ―世界の理を曲げてしまっても? 大罪を犯してもソレを手に入れたいか? ふいに、声が響いた。 否、声を発するものなど無いのだから、それは出血と寒さで負荷の掛かった斯斬の耳に響いた幻聴だったのかもしれない。 視界が霞んでいるのか、炎の光が煽られて歪んでいるのか、それすらも定かではなく。 ―永遠の苦しみと引き換えに、仮初を手に入れたいか? 太く掠れた無機質な声音は、再び問いかけた。 「累杷と共に生きるためなら、『大罪』をこの身に背負うことなど厭いはしない。 俺は進んで『魔』に身を堕とす!」 血を吐くような声音で、けれど笑みを浮かべて斯斬は叫んだ。それは満面であったけれど、笑顔というには余りにも歪んだもの。 腕を伝った血が、激しい叫びに頬へ、白い外套へ、床へと振り落ちた。 それは罪と命の色だ。冷たい床と肌に、その赤だけがはっとするほどに温かい。 ―罪を請い、理(ことわり)との乖離(かいり)を望む哀れな狂人にこそ、『書』(ワレ)は微笑む。 両手を広げて 目を見開くが良い 堕ちていく 哀れな咎人よ ばちん!! と。 耳障りな破裂音と共に、書の留め金が弾け飛ぶ。その金具が斯斬の頬を掠めて血を滲ませたが、彼はまったく気にも留めず、瞬きすらしなかった。 書は見えない力で吊られるように、跪く斯斬の目の前に留まる。見開かれた瞳の先で、書が風に煽られるように頁をめくりはじめた。 目にも留まらぬ速さ過ぎていく頁を、瞬きをせずに見つめ続ける。その斯斬の身体でさえも、まるで何かに縛られて呼吸を止めたように硬直していた。 紙の擦れあう甲高い音だけが、声を失った冷えた世界に響く。風も無いのに、蝋燭の炎は大きく揺れ続けた。 読めないはずの文字が、紺色の瞳に次々に焼き付いていく。『魔の知識』が脳へと流れ込んでいく。 流れ込んで、流れ込んで、 侵食して、 全てが 堕ちてゆく。 |
| ひとつを手に入れるために 全てを失うことさえ 誇りに思う それは 唯一のお前へと捧げた 俺自身の強さと深さ そのものなのだから |
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