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<回想>


この時間が大切なんです
この時間が愛しいのです
あなたが 愛しいのです




季節が一歩一歩進んでいく。
晩夏は過ぎて、いつしか季節は秋に変わった。
緑だった木々の葉がくすみ、ある朝目が覚めるような緋色に染まる。
少し肌寒さの増した縁側で、温かな掛け物に包まる累杷を支えながら、斯斬は目に鮮やかな紅色と金色が風に吹かれて舞い落ちるさまを静かに眺めていた。

「みんな落ちていくよ」

白い指先が、風に誘われてすぐ近くへと舞い落ちた紅葉を一枚拾い上げた。
病的に青白くなった指先では、その色は赤すぎて。どこか毒々しいほどのコントラストに斯斬は思わずその葉を奪い取った。

「わ、何するのっ?」
「今日は風が強すぎる。身体に障るからもう奥へ戻ろう」
「平気だよ。こんなに布団につつまっているんだもの」
「どこが平気なものか。…ほら、頬がこんなに冷たい」

そう言って、透けてしまいそうな頬をそっと撫でる。くすぐったそうに顔を逸らすのに苦笑して、斯斬は布団の蓑虫状態の累杷を抱え上げた。
実際は冷たさはそれほどではない。
でも、累杷と一緒に紅葉を眺めるのが斯斬は嫌だった。
いかに美しいとはいえ所詮木の葉が死んでいく様なのだ。それが力なく風に浚われて消えていく様子は、…今の斯斬には少し辛かった。





研究の進展が無かった。
寝る間を惜しんでどれだけ打ち込んでも、不治の肺の病を治す方法はおろか、磨り減っていく累杷の体力を補う方法さえ見つからない。
それどころか、ここ一、ニ週間研究は暗礁に乗り上げていた。
書の前半と思われる3章が終わったところで、ぱったりとその解読が進まなくなってしまったからだ。
なぜなら。
書の後半部分には前半部分には無かった厳重な封が施してあり、その金具を開ける方法が法師達には見つけられなかったのだ。

(鍵穴が無いものをどうやって開けば良い?)

封には鍵穴も呪も何一つ書かれては居なかった。まるで開けることが出来ないのが当然だといわんばかりに、冷たい鋼が研究を阻む。
何らかの術方法で守られているのか、刃でも火でも一切傷をつけることが出来ない。その向こうにはきっと前半以上の貴重で恐ろしい力を持った何かが書かれている筈なのに、斯斬たちにはそれを読むすべが無かった。

(あの中にならきっと、累杷を救える方法があるはずなのに)

歯がゆかった。無意識に握り締めた拳が、ぶるぶると震えだす。
唇を噛み締めることはしない。それはいつの間にか斯斬が身に着けてしまった習性。彼の大切な人は彼の表情にことさら敏感だから、唇を噛み締めた跡でも残ろうものなら必死になって理由を問い詰めてくるだろう。

「ねぇ斯斬、渡したいものがあるんだ」

ふいに、明るい声音が耳を打った。はっとして見下ろすと、風を遮った室内で、布団の蓑虫から普通の寝床へと身を移した累杷が少し気恥ずかしそうな微笑を浮かべてこちらを見上げている。
「渡したいもの?」
「そこの戸棚の、一番左下から2番目のところ」
そう言って、布団の隙間から伸ばされた腕がその辺りを指差す。頷いて小さな引き出しを引くと、中に和紙で包まれた何か細長いものがあった。
両手で丁寧に取り出して、累杷の枕元へと戻る。
「これか?」
「うん、もうすぐ斯斬の誕生日でしょう? 開けてみて」
促されて和紙の包みをそっと開くと、鮮やかな紅と紺の糸で編まれた組み紐が現れた。それは所々組み方が歪んでいてお世辞には綺麗な飾りにはなっていなかったけれど、それゆえに誰が作ったものなのか一目で分かってしまった。
数週間前、なんだか酷く照れたように何かを隠していたのはこれなのだと漸く納得がいく。
「これ、お前が?」
「そうだよー。斯斬、組み紐って知ってる?」
知っている。少し前からこの飾り物が都で流行になっていた。
でも此処はあえて知らない振りをしよう。…瞳を輝かせてうきうきと問いかけた彼女が、由来を語りたがっているのが分かるからだ。
「見たことは有るが、知らないな」
「これね、何処かの国のおまじないなんだよ。色を着けた飾り糸で、願い事をしながら糸を編んでいくの。この組み紐が切れたときに願い事が叶うんだって。…素敵でしょ?」
床に伏せたままで伸ばされた腕が、和紙の上から組み紐を拾って斯斬の手首に巻きつけた。しかし、その後少しやり辛そうにしているので、言葉にうなづきながら手首を累杷の弄りやすい位置へと落としてやる。

「何を願ったんだ?」
「斯斬の願い事が叶いますように、って」
「それはまたずいぶんと曖昧なんだな…」

累杷の指先で、組み紐はしっかりと斯斬の手首に結び付けられた。
紅色と紺色の鮮やかな組み合わせが、白を基調にした斯斬の法士服には少しだけ浮いていた。



「いいの。だって、斯斬が願うことが、僕にとってもきっと一番嬉しいことだから」




はにかんだ笑顔に、胸が締め付けられるようだった。
病床に伏して身体はどんどんと衰えていくのに、瞳と笑顔は以前とまったく変わらない。
布団と縁側を自力で歩くことさえ出来なくなった体力に、立つ動作にさえ震える足に。今だって侵された肺は痛むだろう。
何よりも、繰り返す発作で真っ赤に染まるものを見て、もう長くないことを自分でも感じるだろうに。

どうしてそんな風に笑えるんだろう? 一番苦しいのは彼女なのに。命の期限が迫っていて、なお明るく。
どうして。…こんなにも愛しいのに。…守る方法が見つからないんだ。
斯斬は一度だって、累杷が弱音を吐くのを聞いたことが無かった。
自分と一緒に歩く未来が来ることを当然のように語る姿は見ていても、目前の時間制限への嘆きは一言も。


「有難う。…累杷の願いが篭ってるのなら、きっと効果絶大だな。すぐに俺の願いは叶うよ」
「斯斬はせっかちだ。すぐに切れちゃったら、頑張って作ったのに勿体無いじゃない」

慈しみを籠めて額に唇をおとすと、くすぐったげに笑いながら、答える。
愛しい、愛しい、愛しい。そればかりだ。時間制限なんて許せない。絶対に。
早く。あの封を開ける手段を見つけなければ。
この笑顔が消えてしまう前に。


「焦らないで?」


―いつだって、見透かされてしまうのだ。
一瞬の気配の差を感じ取られてしまったらしい。しまったと思う間もなく、屈んでいた斯斬の首にを優しく撫でられた。

「僕は斯斬と一緒に居る。苦しい時はあるけれど、怖くは無いよ? …斯斬は絶対に、見つけられる」

僕たちがずっと一緒に居られる方法を。
…彼女が生きる方法を。

信頼と、慰めと。どちらの真意なのか斯斬には分からない。もしかしたら両方だったのかもしれない。
ただ真実は、斯斬の首を撫でる彼女の手は震えては居なかったこと。

まだ大丈夫。まだもう少し時間はある。
だから、精一杯に。 足掻くのだ。





 * * *




それからの斯斬は、一種の二重生活だと自分自身を自嘲出来る。

寝る間を惜しんで『書』の研究へと打ち込む様は、まさに狂人の如く。
法医学に見切りをつけて、『禁術』のみに打ち込む。
上司である威灘は何も言わなかった。むしろ、斯斬が見切りをつけた法医学関連に別の人員を充て、斯斬の行動をフォローするような動きのほうが目立ったかもしれない。
いつだったか、彼は酒の席で言った。
『自分は偉くなりすぎた』のだと。妹のために研究の路線を動かす力は手に入れても、研究自体に打ち込むことは出来ない。
兄としてと、研究院長として、その板ばさみの苦しさは彼にしかわからない。だからこそ、威灘はその役目を斯斬に任せたのだ。斯斬に許されるだけの人員と、経費と、設備と、時間を与えた。

そして、そういった一点のみに向かう張り詰めた緊張感とは対照的に、累杷に会う時だけは十分に休み、心を緩めて、じゃれあう。
幸せな時間の一片でも落とさないように。

絶望と幸福、罪と潔癖、暗闇と日溜り。

二つの場所を何度も何度も斯斬は行き来した。
ただ一点、愛しい者を失いたくない一心で。




 * * *




そして、色づいた秋も終わり。

斯斬の腕に巻かれた組み紐は切れる気配も無く。

いつしか、縁側で語り、景色を楽しむことさえ出来なくなって。



都を例年にない豪雪が襲った身を切るような冬の日に、零れ落ち続けた砂時計は突然に時を告げた。



「斯斬さん、威灘様がお呼びです。」

その日は屋内に居てもなお息が白くなるほどの寒気で、他の研究員と共に蝋燭の明かりの元遅くまで研究に勤しんでいた斯斬の元へといつもの後輩が連絡に訪れた。
ただし、普段と違うのは落ち着いた彼が寒さの所為とは言い切れない青白い顔をしていたことだろう。
その唯ならない雰囲気に、斯斬が切り盛りする研究室は一瞬にしてぴんと静まり返る。
「威灘様が? 分かった中央院行く。 誰かこの資料を…」
「いえ、威灘様のご自宅へと向かえとのことです。本日の研究は全て他の人間に任せたから、すぐ来るようにと」
研究の事で呼び出しかと、自分の編集していた資料を他の法士へ受け渡そうとするところで、後輩の彼は低い声で付け足した。
「…威灘様の自宅?」

瞬間に想像した理由を、斯斬はとっさに否定した。


しんしんと降り積もる雪の中、駆けつけた威灘の屋敷は騒然としていた。
客車を停める場所には斯斬よりも先に一台の馬車が停まっている。その馬車の持ち主を斯斬は既に知っていた。
雪を払うことさえおざなりに屋敷へ上がれば、待ち受けていた女中に予想通りの場所へと案内される。
何度も何度も通った道が、なんだか知らない場所のようだった。女中が何か早口で言っているが、斯斬には良く聞き取れない。

たどり着いた累杷の私室は、いつもの静けさが嘘のような慌しさだった。部屋の中が蝋燭の明かりで明るく照らされている。何人もの女中たちが、湯を張ったたらいや布のようなものを持って行き来する。そうでない者も部屋の入り口を埋めるようにして、しんと黙って中を伺っていた。その垣根の所為で中までは覗けない。
酷い咳の音がした。何かを絡めたような苦しげな呼吸音に、老人の声が何かを指示する叱咤の声。
そして、取り乱すのを必死で抑えたような、よく知った上司の声。

「どいて、どいてください!」
女中が声を上げて、雪を所々に乗せたままの斯斬を伴って垣根をくぐる。
開けた視界の先で、白い布団に横たわる少女と、その枕元で必死に声をかける男と、指示を飛ばす都でも屈指の名医の姿があった。
斯斬に気づいたのか、威灘が酷く動揺した表情のまま近くに来るように促す。
足がもつれるような気がした。急ぎたいのに地面が歪んでいるように感じる。音が遠い。白い布団に埋もれた累杷の頬は蒼白いのに、目元と口元だけがやけに赤い。まるで化粧を刺したようにそこだけ鮮やかで。真っ白なだけだと思っていた布団に黒い模様がある。いつの間に。

その黒が、酸化した血の色だと思い至ったとたん、世界に正常な音が戻った。


「発作だ。今日の夕方らしい。累杷がお前を呼んでいるんだ。すぐに近くに…」


最近ずっと調子の悪かった彼女は、次の発作がきたら危険かもしれないと医師からも何度も念を押されていた。食べ物を殆ど受付けなくなった身体では、発作のための体力の消耗が既に命取りであると。
手招かれて、医師が譲ってくれた場所に座る。医師が場所を譲った意味を、斯斬はその時正しく理解する余裕が無かった。
累杷の意識はあった。
斯斬の座った気配を追って、赤茶色の瞳が細められて、ひゅうひゅうと掠れた音のする口元が小さく綻んだ。
重そうに腕を上げて肩に触れようとする。意図を理解しない斯斬に変わって、威灘が布団の中から少女の軽くなりすぎた上半身を抱え上げた。
そのまま、斯斬へとその身体を渡す。

「…ごめん、ね? 仕事忙しい のに」

「何言って…」

「最後かもしれ いて言うか 。 なら斯斬にぁわなくちゃ って おもって」

あはは、ごめんね、らしくなくて。
そんな風にいつも通りに笑って。笑って。 笑って。




「しぎり ずっと だいすきだよ?」














直後に。
酷く咳き込み始めた累杷の体が、斯斬の腕の中で陸にあげられた魚のように跳ねた。
呆然とする斯斬の目の前で、そのまま苦しげに胸をかきむしり始める。咳と共に跳ねた温かなものが頬を小さくぬらした。
威灘が慌てて医者を呼ぶと、肺の中に血が溜まっているのだと老人は言った。
暴れる身体を押さえつけながら血を吐かせるものの、とめどなく溢れて止まらずに。乱された布団のあちこちにまた赤黒い染みが増えていく。
ぜぃぜぃとした荒い呼吸が不意に静かになって、暴れる手足が大人しくなるのと、医師が沈痛な面持ちで小さく首を振ったのが同時だった。

力ない口元を拭われた累杷の顔は、黄色い蝋燭の明かりの元でもなお白く。
乾いてしまった唇から囁くような声音が漏れたので、斯斬は慌てて少女の上半身を支え上げて耳を寄せる。
感情がついてきていない。ただ条件反射で、声を一言も漏らすまいと。





「            …」






「るい…?」



聞き返そうと顔を離すと、かくん、と首が重力に沿って崩折れた。汗ばんだ長い髪がぱたりと白い布団を叩く。
いつの間にか閉じられてしまった瞳の、長い睫の先に涙が絡んでいる。
力の抜けた、軽い身体をゆすって、何度も呼んだ。ゆするのに合わせて、頬を零れ落ちた涙の粒が斯斬の手首にぱたりと落ちた。
けれど、紅を引くのを失敗してしまったように、口元からつるりと零れ落ちた血色以外に、

もう応えは返って来なかった。









その日、累杷は 死んだ。












『 もっと しぎりと いっしょに いたい 』







ほんとうの ほんとうの
最後に聞かせてくれた

本当の

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