月
<回想> |
磨耗されていくのはなんだろう。 『禁術書』というものが存在している。 それはいつの時代に書かれたのか、どこで作られたのか、誰が書いたのか全てが謎に包まれた一冊の書。 ある一匹の魔が神から盗み出した知識の一部。数万の民を個人の手中に治める方法から、一晩で巨万の富を得る方法。果ては人外の力を得る方法などが記されているという。 時の権力者から、野望に満ちた蛮族までが喉から手が出るほどに求めるその書は、『生きている』。 力を得るに足る人間を探しだし、書はその目の前に自ら現れるという。 伝説級のその代物だと言われる品が、都へ、研究院へ持ち込まれたのは春の初め。 法士達の驚きと興奮は相当なものだった。厳重に保管された箱の中から取り出された、腕を回して漸く持ち上がるような分厚く、巨大な書は、当時その輪の中で共に開封を見守った斯斬の目にも強く焼きついた。 黒い、何かの動物とも植物とも判別の付かない表紙には、研究院の薄明かりの元で蒼白く艶かしい光を照り返す文字らしきものが彫られている。しかしその題は…当時解読されているどの地の文字にも該当しなかった。 『読むことの出来ない書』。 伝説通りに『生きた』書だとは思えなかったが、しかしその書が人を選ぶことだけは確実かもしれなかった。 解読する事の出来る知識と、その執念がある人間にのみ、その力は分け与えられるという意味なのだろう。 当時の帝直々の命令で、研究院はその後多くの人員を裂いて禁術書の解読に当たった。 各地の秀才を集めた功名名高き都の研究院、さらにその精鋭のチームによってさえ、解読は困難を極めた。 漸く最初の方の項が『文』として理解できるようになる頃には、季節は移り変わり、晩夏の終わり秋の気配が漂う季節となっていた。 日々の仕事を忙しくこなす中で、一人の若い法士が斯斬を見つけて近づいてくる。 斯斬より2つ下で後輩にあたるせいか、斯斬への連絡やサポートに良く回されている青年だった。今日も何かの報告を持ってきたのか、手には数枚の書類と手帳を携えている。 「斯斬さん、2章の3項ですが、解釈に間違いは無さそうです。」 「2章の3項…『不死の力を一時的に与える法』か。…試用していたんだったな?」 「はい、先月の初めから六名の罪人に試用させましたが、全員未だに生き続けています。 …ですが、内五名は精神的にはもう駄目なようですね。一名も発狂寸前との事です。現状を一度確認お願いできますか?」 「そうか、了解した。」 血生臭い話ではあるが、研究とは考察と実験の繰り返しだ。 書の文法や語句の解釈が正しいかを判断するために、小動物での実験の後、帝公認の元に重犯罪で極刑となった者が研究院への協力者として移送されていた。 薄暗い廊下を報告に来た法士と共に歩き、埃ひとつ濁りひとつない硝子の向こうを斯斬は無感情な瞳で見下ろした。 一階低くなっている向こうの部屋は簡単な壁でいくつもの小部屋に仕切られている。天井は区切られていないため、今斯斬達が見下ろす場所からは全ての個室の様子を一見することが出来た。 「エの9から15が3項の試用中の罪人です。」 示された個室には、首をつられている者や、血を吐きながら転がっている者、首から下が無い者などが一人ずつ納まっている。ここからはどれもはっきりとは確認できないが、報告からすると全員生きているということだろう。 彼らはそれぞれ、一月の間何があっても死なない『時間制限のある不死』の法に掛けられている。 たとえ毒を盛られようと、刺されようと、首と胴体が切り離されようと、術が切れるまでは死ぬことは無い。一通り確認した後に、斯斬は無表情のまま硝子の壁面に背を向けた。 「もういいだろう。十分確証は取れた。6人とも術を解いてやれ」 「…承知しました。最後のデータをとった後に、観察を終了するように伝えます。」 観察の采配を手配する彼には見慣れた光景なのか、顔色一つ変えずに斯斬の言葉をメモにとっていく。その様子を振り返っていた斯斬は、もう一度硝子の向こうに目を走らせた。 厚い壁の所為で、こちらには罪人たちの悲鳴もうめき声も聞こえない。 「…この世の地獄だな。あの書にあるのはどれも、神では無くて悪魔の術なのかもしれない」 ぽつりと呟いた言葉に、法士は一度きょとんと見返してから、静かに頷いた。 「そうですね。…それらを研究する私たちもまた、きっと悪魔と同意なのでしょう。」 斯斬は返答せずに、背を向けると廊下を帰る。研究員も無言でそれに付き従った。 鉄さびの匂いがする気がする。 柔らかなあの香の香りが嗅ぎたい。 「斯斬」 薄暗い地下実験場から、再び日の元へと帰ってきた斯斬を見つけて声を掛けてきたのは、累杷の兄だった。 「どうされましたか威灘(イナダ)様? 本日は登城なさらないはずでは…」 「どうもこうもないさ。累杷が君に会いたいと駄々を捏ねてね…」 「……」 苦々しげに言う精悍な男、けれど顔には妹を甘やかす苦笑が浮かんでいた。 「私も斯斬も、お前の為に研究に励んでいることが分かっていないんだろうか、あいつは」 「そんな事有りませんよ。義兄上に甘えたいだけなんですよ、彼女は」 「全く…」 苦笑する斯斬に大きなため息をついて見せた彼は、そのまま身振りで、此処からでも垣間見える研究院の荘厳な門を示した。 「調子が良い時は我侭ばかり言う妹で申し訳ないが、会いに行ってやってくれ。君の仕事は私が代わりに引き継ごう」 「え…しかし……」 行き成りの提案に斯斬は慌てて断ろうとするが、その手元から仕事用の書類一式を抜き取られてしまう。 そうなってしまうと、上司でもあるその男から強引に取り返すことは出来ない。 「君も最近根を詰めすぎている。死人のような顔色をしているぞ? 恋人をやつれさせたとあっては、私が累杷に怒られてしまうからな、今日はもう下城していい」 「…有難うございます」 結局は、斯斬の根の詰めすぎも彼は気に留めていたらしい。累杷に会いたくなっていたのも正直な気持ちなので、斯斬は彼の言葉をありがたく頂戴することにした。 無言のままずっと側で控えていた後輩の法士が、そんな彼の姿をくすくすと微笑ましそうに見つめていた。 * * * 暖かな春が過ぎ、命が燃える夏になり。そして蟲たちが朽ちていくのに合わせるかのように、累杷はその年急激に体調を崩していた。 最初は軽い微熱と咳が続く。やがて食欲がなくなり、箱庭に出てはしゃぐ事も少なくなり。咳と共に血を吐いた最初の発作の後、とうとう滅多に床から出ることがなくなった。 累杷が十六の晩夏。 生後すぐに宣告された『二十歳を超えることはないだろう』という医者の言葉そのままだった。 ―薬草の香り。 少し前までは、大陸のあちらこちらから取り寄せた心和ませる香の匂いが屋敷に満ちていたのに、今では染み付くほどの薬草の香りがそれに取って代わっていた。 物静かながらも暖かな雰囲気に包まれていた屋敷も、どこか沈んで見える。その広い廊下を迷い無く渡りながら、斯斬は考える。 薬の香りを累杷はずいぶんと嫌っていたはずだけれど、最近は文句を言わない。もしかしたら其処まで気にする余裕がないのかもしれない? 一段と蒼白くなった横顔が目の前を掠めて、斯斬は不吉な予感に大きくかぶりを振った。 寝不足なのだ。最近は時間が許す限り法医学と禁術書の研究に打ち込んでいるから。 こうして累杷を尋ねる予定の時間になるまでは、それこそ不眠不休で。…だから、こんなに気が弱っているのだ。 累杷の部屋の前に着くと、ちょうど乳母が静かに襖を閉めたところだった。 「…こんにちは」 「あら、斯斬様!威灘様は本当に呼んできて下さったのですね…!累杷様喜びますわ」 どこか疲れたようだった乳母の表情が素早く笑顔に変わる。その直前の表情を斯斬は見逃さなかった。 「ええ、威灘様に仕事まで引き継いで貰ってしまいました。…ところで累杷は?」 「ちょうど今お薬の時間が終わった処ですわ。威灘様にお聞きになったかも知れませんが、今日は累杷様の顔色も大分よろしいのですよ。なんと言っても、苦いお薬を飲みたくないと駄々を捏ねて下さいましたから」 そう言って、素朴な母性溢れる乳母は袖を口元に当ててくすくすと笑った。 累杷の薬嫌いは元気な頃から変わらない。その駄々の捏ね振りは中々強情で何度も困らされた。しかし、駄々を捏ねるにも結構体力を食うものなのか、体調を崩してからは大人しく飲むことが多かったのだ。 それが我侭を言ったというのだから、成る程今日は体調が頗る良いらしい。 「後ほどお茶をお持ちしますから、どうぞ早くお会いになってあげて下さい。斯斬さんがいらっしゃるのをとても楽しみにしている様でしたから」 促されて、盆を抱えて廊下の端へ消えるのを見送ってから、斯斬はふすまの向こうへと声を掛ける。 今の会話はずっと小声であったから彼女には聞こえていないかもしれない。大きく息を吸って、なるべく柔らかい声ではっきりと。 「累杷、俺だ、斯斬だ。―入ってもいいか?」 途端に、ばさっやら、ばたた!やら、妙な物音が響く。 「る、るいは…?!」 「し、斯斬待って…! もうちょっと、もうちょっとだけ待って!」 慌てて襖を開けようとした斯斬に、同じく慌てふためく少女の声がして、すんでの処で思い止まる。もしかすると…着替え、とか。一瞬脳裏に横切った光景を斯斬はすぐに振り払う。…寝不足だ。こんなところにも寝不足の影響が出ている…。 それから少しの間何かを出し入れするような物音の後、そろそろと襖が開いた。 隙間から、思わず最初に服装を確認してしまう。…見慣れた純白の寝巻き姿にほっとして、斯斬は再び心の中で自分を叱咤した。 隙間から覗いた白い顔は最後に見た蒼白さよりほんの少し赤みが差していた。赤茶色の大きな目がじぃっと見上げてくる。 「い、いらっしゃい、斯斬。待たせてごめんね…」 「大丈夫だ気にするな、何があったんだ?」 「そ、それは…秘密…!」 「……?」 照れ照れとはにかむ様子で、悪い内容ではないようだが…。訝しがる斯斬の手を引いて、累杷は部屋の中へ誘う。 部屋の真ん中を床が占めている累杷の私室だから、布団を踏まないように避けて二人は庭を見下ろせる縁側近くへと移動した。春や夏は目に眩しい位の緑を拝める場所だが、秋の訪れ間近な今は少しくすんで物悲しく見えた。 「斯斬、なんだか顔色悪いよ…?具合悪いの?」 腰を落ち着けた途端に、累杷はこちらを伺うような視線で見上げてきた。普段鈍感なのに、こういうときだけは鋭い。 「そんなことない、大丈夫だ」 「嘘だよ」 不意に伸びてきた白魚の腕に、銀縁のメガネを掠め取られてしまう。反射的に目を閉じてしまい、慌てて開けばすぐ目の前にくりくりとした赤茶色の瞳があった。 大きな目の中に、眼鏡を取られた己の顔がくっきりと浮かび上がっている。 「ほら、眼鏡で隠れてたけれど、こんなに酷い隈が出来てるじゃないか!」 細い指が頬をたどって、目の下あたりを優しくなでた。ひんやりと冷たい指が、隈の所為で軽く熱を持った皮膚に心地よい。 「研究ばかりでちゃんと寝てないんじゃないの…?ご飯ちゃんと食べてるの…?僕には良く寝ろとか、ちゃんと食べろとか言うのに、自分が出来てないなんて、斯斬頭いいくせに、どうしてそんなに馬鹿なことするの?」 彼女の兄がそこまで話しているとは思えない。けれど、彼女には自分のことはどうやら丸分かりの様だ。 思わず苦笑してしまうと、目の前の幼さの残る顔がむっと歪む。 「笑うところじゃないでしょ!」 軽く振り上げられた腕をそっと捕まえて、そのまま抱きしめてみた。少し悲しいことに、抱きしめた身体は前よりもまた少し痩せてしまった様だった。 少しびっくりしたようだった累杷も、すぐに大人しくなって肩に額をうずめてくる。 「そうだな、累杷に叱られるなんて情けない。…訂正するよ、少し無理をして研究に打ち込みすぎていたみたいだ。…お前に言っといて自分が倒れたら間抜けだからな、ちゃんと休むようにするよ」 「…うん。斯斬まで具合が悪くなったら、僕は淋しくて死んでしまうんだから」 「それは困るな。休みついでに会いに行くから、累杷にも元気にしていて欲しいよ」 「…うん…」 さやさやと庭木の擦れる音。屋敷の中に漂っている薬の臭いも、この場所では爽やかな風が全て洗い流してくれている。 トクトクと響く心臓の音がだんだんと重なっていく。穏やかになっていく。 ふんわりと温かな体温が着物越しに伝わって、疲れていた心までが柔らかく癒されていくようだった。 なんでもない瞬間が、こんなにも愛しい。笑っていて欲しい、側にいて欲しい、ただそれだけ。 ―…ただ、それだけなんだ。 「…あらあらあら…まぁ」 数分後、薫り高い緑茶と累杷の好む和菓子を盆に載せて戻ってきたキヌは、縁側そばに広がる光景を見て目を丸くした。 畳の上、夏の日差しが和らいで爽やかな風が吹き抜けるそこで、斯斬と累杷が抱き合ったまま寝息を立てていたからだ。 色気のひとつでもあったらキヌももう少し慌てるところだが、斯斬の腕と外套に埋もれるようにして眠っている累杷はどう見ても子犬のようだし、それを守るように抱いている斯斬も親犬の様相だ。 あまりに微笑ましいので起こす気も失せてしまって、累杷の布団から掛け物を剥ぎ取ると、二人の上に被せるだけに留めることにした。二人でくっついていれば掛け物さえあれば十分暖かいだろう。 「斯斬さんも疲れていらっしゃったのですね…。威灘様も常にぴりぴりとしていらしゃるし…。累杷様もお二人の事心配してらっしゃるんですよ、屋敷のお外に出ることが出来ないから、余計に…」 折角入れてきた緑茶は無駄になってしまった。居場所無さ気に湯気を立てている茶器達を再び抱えると、キヌは静かに部屋を辞した。 「どうかたまには、ゆっくりお休みになって下さいませ。」 部屋には葉擦れの小さな音だけが残った。 |
| この刻が 唯 愛しくて …愛しくて |
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