月の無い夜に・6



この情報だけは、伝えなければならない。
たとえ、俺自身が息果てて、この身体が再び故郷の土を踏めなくても、必ず。




(…夜になる…。腹が少し、空いたかな…)
路地裏の隙間から覗く空は美しい茜色に染まっていたが、端のほうが淡い群青に落ちてきている。
この人族の街に紛れ込んで、臨時の上司であるシフォン・フォルテ医師に掴んだ『情報』を伝えるのが最後の仕事だった。
事前に追われていう事を『メッセージ』を乗せた鳥で伝えたから、今も接触するのを緊張しながら待っているだろう。定時を過ぎても現われない自分に焦っているかも知れない。…今回の計画のために期間限定で上司になった彼は、精霊族国屈指の頭脳の持ち主であるのに、中身は非常に人が良い、心の優しい人のようだから。
「申し訳ありません。…でも少し、時間を下さい…」
苦笑して、思い浮かべた彼の顔に心の中で手を合わせた。

ここまでは必死で駆け抜けてきたが、街に入って少し気が抜けてしまったのか、休息を取らないと動けそうに無い。
あの魔獣族の追っ手との乱戦は、逃げる事を最優先にしていなかったら今頃自分も生きてはいないだろう。簡単に止血はしたものの斬られた傷は痛むし、重い一撃を入れられた腹は肋骨にヒビでも入っているようで鈍痛が走る。炎の魔法で焼かれたノドのせいで呼吸も少し苦しい。
何よりも、許容量以上に魔法を連打した所為で、身を隠す結界を張ったらもう立っている体力も怪しかった。
(とりあえず、この結界内にいる間は、たとえ追加の追っ手が有っても見つからないはず…)
味方であるシフォン医師にも見つけて貰えないけれども、それは仕方がない事だ。一度休んで、体力が回復してからこちらから出向くしかない。
念のため直ぐに手の届くところに弓を置くと、青年はゆっくりと目を閉じた。



しかし、青年の予定は翌朝、まったく予想外の方向で破られてしまうのだ。

「だ、大丈夫ですか!?」

翌朝、近くで上がった大きな声に、カースは驚いて目を覚ました。
まさか見つかるわけはないだろうと思っていたのに、この暗がりの路地からは眩しい明るい表通りから、こちらを覗き込んでいる人影があった。そのまま慌てたようにそれは駆け寄ってくる。
透視されるだけならいざ知らず、近づかれた瞬間に自分の張った結界が壊される感触までしてカースは慌てた。何の初動作も無しに壊されるのは、相手と自分の間にかなりの魔法力の差があって、相手が別の結界で身体を守っている証拠だからだ。
そんな強い魔法師がこんな人族の街に居るなんて早々あることではない。
「近づくな!!」
咄嗟に怒鳴ると、相手は驚いたように動きを止めた。その反応に追っ手では無いと判断して弓に伸ばした手を下ろし、改めて『自分の結界を破ってきた』少年を見あげた。
逆光になっているが、耳も尖っては居ないし獣の特徴も無い。精霊の気配を帯びた同族(精霊族)特有の気配も無い。
「お前…ビギナン(人族)か…?」
「…っ …はい…」
外見上は属性も、際立った特徴も無い種族の名前。先ほどカースの結界と彼の結界がぶつかった筈なのだが、今は結界の気配は欠片も感じなかった。
(…外部の変化に反応して自動的に発現する防御結界…? …しかし、人族にそんな高度な結界を作る魔法力は無いはず…)
先ほどの結界破壊さえなければ、目の前の彼はどこにでも居るようなごく普通の少年だった。
しかし、カースがそうやって少年の正体を探る間に、少年のほうもカースの状態に尋常ではないものを感じたらしい。いくら断っても手当てをするといって聞かなくなった。
確かに傷は止血しただけで、せめて包帯で覆わなければ感染症にかかりそうな具合であったし、もう2日は飲まず食わずで体力の限界が近いのも確かで。しぶしぶながらカースは少年の肩を借りる事にした。

偶然にも、それから数十分ほど後に一瞬漏れたカースの気配を追って、復讐に燃える魔獣族の少女がその場を訪れていたから、それは間一髪で運命がカースを助けたともいえなくは無かった。
ただしそれも、もっと大きな歯車の中ではほんの少しの違いであったのかもしれないけれども。



 * * *



「チェックメイト だ」


首の後ろに、つっ…っと冷たい金属の触れる感触がして、ユレンは瞬間全てを悟った。
満身創痍であるのに、男は強かった。最初から全てにおいて一枚上手であったが、それは最後になっても同じだった。
背後を取られ、首に鏃を押し付けられては、もう何も出来ない。数瞬後には、強力な加速をつけた矢は容赦なく自分の首を飛ばすに違いない。
魔獣族は相手の実力を認める。負けを負けとする事を恥じない。
湧きあがっていた憎しみがすっと凪いだ時、丁度自分の魔法で巻き上がっていた土ぼこりと煙が晴れて、空が見えた。
(少し、雨の匂いがするな)
ほんの少し白味掛かった街の空だ。故郷の村の空は此処よりももっとずっと高くて、澄んでいて、風は涼しかった。森の匂いと土の匂い、命の芽吹きに囲まれた美しい森。
兄さんは嬉しそうに村を出て行って、私もその背中を追いかけて。一部隊を任されるようになってからは忙しい日々だった。やりがいもあったけれど、たまに心の痛い仕事も有った。
小競り合いに参戦した夜は、異種族とはいえ奪った命に眠れない夜もあった。兄さんが黙って隣で寝てくれたっけ。
大好きだった兄さん、部隊の皆。彼らの墓に、華を添える事は出来なかった。ごめんね。
でも、あの日々は充実してた。軍に入って女の子らしい日々を送る事は出来なかったけれど、それでも幸せだった。楽しかった。
大好きだ。皆。 大好きだよ。


バリリッと首の後ろで矢を加速する電撃の絡んだ音がして、次の瞬間ユレンの意識はプツリと途切れた。
ドサリと重い音を立てて、白銀の髪と獣の耳をつけた首が芝生の上に転がった。真っ赤な血液が生々しく飛び散って、至近距離で矢を射た兵士の頬にも跳ねた。
彼女の瞳は最後、優しい夢を浮かべるように閉じられていた。



 * * * 


一つの終わりと、
もう一つの終わり。

何故現われたのか、理由も目的も分からない。
けれど唯一つ、これは『歴史』というものが持つ、理不尽な選択と結果なんだろう。
膨れ上がる膨大な力に、それを察知できる人間全てが運命の転換を迎える。

例えば、
ひとりは、未知の存在に怯え、
ひとりは、予想外の出来事に戦慄し、
ひとりは、不吉な予感に背筋を凍らせて、
ひとりは、…閉ざされてしまった可能性に唇を噛み締めた。

ひとりは、ただ遠い記憶と夢に思いを馳せて、小さく詠う。
変わらない運命と変わらない予言の未来を。


 * * *


ドッ…


重い音が体の中心で響いて、カースは何が起こったか大体予想が付いてしまった。
目の前の闇王の片腕が、まるで空間の中に埋まるように消えている。そして痺れる様な冷たさを感じ始めた胸元を見下ろせば、消えた彼の腕は己の左胸から生えていた。
闇王が空間移動能力を有している事は、最初に彼が姿を現した瞬間に確認済み。もともと魔法力で格上過ぎる相手であるのに、空間移動能力がある相手と戦うのは結界をはって空間を封じるのが大前提。…初めから、カースに勝ち目など無かったのだ。
それでも万に一つの可能性に賭けて、きっと近くまで来ているだろうシフォンへ情報を伝える時間を得るための悪あがき。けれどそれももう時間切れだ。
心臓からは外れていたものの、体の中心を深くを貫いたそれが致命傷で在る事は直ぐに分かる。舌打ちして顔を上げると、血色の瞳をした魔族の王は憎らしいほどの余裕の笑みでこちらを見つめていた。カースが時間稼ぎをしている事に気付いていて心臓をはずした事も、彼の絶対的優位からのほんの少しの気紛れなんだろう。
ズルリとした嫌な感触とともに胸の圧迫感が消えて、それに比例するように一気に体の力が抜けていく。いつの間にか降り出していた雨に濡れた地面に、重力の働くままにカースの上半身は叩きつけられた。
「カースさんっ!!」
それまで怯えたように隅に居た少年が、悲鳴をあげて駆け寄ってきた。戦闘も戦争も知らないような少年には今目の前にあるもの全てが恐ろしいのだろう。触れてきた手が震えている。
それでも必死に呼びかけてくる彼を見上げて、カースはひとつだけ『可能性』を見つけ出した。
例えば、今ここで周囲の動植物へ『情報』の『メッセージ(伝言)』を残したところで、闇王は全てを消してしまうだろう。王の強制解術(ディスペル)に抗うほどの守りを作る事はカースには出来ない。
けれど、この少年はどうだろうか?
先ほどまでの戦闘で、何の理由が有るのかは分からないが少年が精霊族で、強い魔法力を秘めている事がカースには分かっていた。今の所守りに使う防御反応しか見てはいないが、彼に託せばもしかしたら、闇王のディスペルに抗って『情報』を伝える事が出来るかもしれない…。
今此処で自分が死んでしまえば可能性は0。しかし少年に託せば、万に一つがありえる。
…託した事が分かれば、十中八九この少年は殺されるだろう。けれどもしかしたら、少年は逃げ切るかもしれない。少年は今は無傷で五体満足だ。

…酷い事をすると思う。傷の手当ての恩を、カースは仇で返すのだ。
酷く心苦しかった。けれど、0よりは万に一つを選ばなければならない、カースの持つものはそういった価値のあるものだった。
せめて、と少年にはカースがもてうる限りの一番に高度なメッセージの魔法を託す。
言葉はひとつだけ。少年にもきっと意味は分からない。けれどそれで良い。少年の持つ情報が多ければ多いほどに、逃げた後の彼にどんな危険が及ぶか分から無い。
なるべく自然に、なるべく何も知らないまま。知らない事が一番の安全になると信じる。
…条件が揃えば、たとえ自分の息絶えた何ヶ月後だろうと、あとは仕掛けた魔法が全てをこなすだろう。

「逃げろ…。…イスファレス…に。 王に…会ってくれ… 頼む……」

掴んだ腕を通して言葉と共に魔法を掛ける。情報を託す。
カースの魔法さえ弾かれる懸念も有ったが、一瞬虚ろな光が少年の翡翠色の瞳を掠めて、カースは自分の言葉が正しく少年の中に留まった事を確かめた。

(すみません…シフォンさん…)

搾り出した魔法で一気に意識が霞んでいく。
最初に浮かんだのは、温厚な医師の顔だった。
次に浮かんだのは厳しい自然に囲まれた故郷の景色。高い山の斜面に作られた幾つもの鍛治屋の細い煙。幼い頃から見慣れた澄んだ空、舞う大きな鳥と高い声。
カースの故郷クレストは、武器作りと弓兵の寄宿学校が主で、お世辞にも優雅とは言えない街だったけれど、冬になれば身を切るほどに冷たい透き通るような川と泉の多い美しい場所だった。
父と母は元気だろうか。最後にもう一度手紙を出しておいて良かった。無事の便りを送れない事は悔しい。
次に浮かんだのは洗練された古都、イスファレスの美しい石造りの町並み。色とりどりの高い屋根。…騎士団入団のために初めて首都を訪れた際には、美しさに言葉を失った。
騎士団同期の奴らと最後に会ったのは、確かこの作戦に参加する前日。週末を騒いで過ごすいつもの酒場で、自分の昇進を祝ってくれた。
必ず還って半分だけ残したボトルの中身を飲み交わそうと約束したが、あれは果たせなくなってしまった。仕切っていた先輩は怒るだろうか。入団直後から世話になっていたし…申し訳無いな。

雨の音が遠くなる。
少年は無事に逃げたんだろうか?残念ながら、もう確認する事が出来ない。
出来たら、最後にもう一度謝りたかった。彼は孤児だと言っていたから、何の問題もなければイスファレスまで連れて行ってあげたかった。
この街は異種族には厳しい。今回自分が巻き込んでしまった所為で、彼はきっとこの街には居られなくなるだろう。しかもこんな戦闘が教会という最も縁遠い場所で起きてしまった。
集団は時にとても恐ろしいものだから、闇王や魔族の追っ手と同じくらいに、彼には早くこの街から出て欲しいと願った。

全ての音が消えて、感覚が無くなって、やがてまどろむ様に意識が消えていくのを感じる。

…どうか、少年に精霊の加護と、暁の女神の祝福を。
俺の歩けなかった分の生と、巡り合うはずだった少しの幸運や勝利を、
願わくば巻き込んでしまった、彼のため に 。




 * * *




翌日、身分を証明する一切を持たない二人分の遺体は教会墓地に埋葬され、同日夜、青年の戦死は別の人間の手によって帝都へと伝えられた。
彼が望んだ様に少年は町を出たが、彼が『情報』を受け継いでいる事を知る人間は残るは一人。彼は何も言わずに教会を去り、『情報』の情報は失われる。
帝都大教会のキュルケゴールには、彼の名前と友の言葉が刻まれた墓石が置かれたが、墓は空っぽのままだ。
彼が帝都へと還り、故郷の土へと帰還を果たすのは、この後に起こる重大な事件と戦が全て終わってからになる。



月の無い夜に・完

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