放たれた想いがいつか、二人にとどきますように




【 水底のオルゴールは追憶の緋を奏で・11 】





 背後で鋭く名前を呼ばれたけれど、すぐに上がった盛大な水飛沫と泡の音が耳を覆った。
 直後激しい流れにもまれて一瞬上下もわからなくなったけれど、目の端で上がる気泡でなんとかあたりをつける。
 下を覗き込むと、水は想像よりずっと澄んでいた。次々と上がる小さな気泡に逆らい暗い蒼の底に向かって水を蹴る。
 不思議な事に、動きは流れに邪魔されず、あんなに散っていた瓦礫も周囲には無い。

 底へ底へ、その先の、紅い光の一点へ。


「……!」


 あっさりと辿り着いた水底は、白い砂と白い岩と。その隙間に沈んでいたのは、真っ白な人の骨。
 その細く頼りない腕の先、赤い光の正体は、綺麗な紅色の石が嵌まった……小さな指輪だった。










『私は嘘をつきました』


 女性がひとり、岬に立っていた。
 彼女が人目を避けるように被ったストールと豪奢なドレスが風に煽られ、巻き毛が風に遊ぶ。青い空がその鮮やかな緋色の瞳に溶けている。

 ただ無言で、海を、その先を見つめて立っていた彼女は、ふと懐から取り出した小箱をそっと開けた。
 そこに収まっていたのは、彼女の瞳を溶かしたような緋い石の嵌った指輪だった。

「……分かっていなかったのは、私の方だったのね」

 華奢な指にはまるリングを海と空にかざし、眺める。
 その物思いに沈んだ瞳はただ後悔だけが滲んでいた。

「もう諦めなければいけないと、相応しくない気の迷いだと周囲の言葉をうのみにして、子供の初恋なんて忘れるものだと思っていたの」


「離れればそれきりだと思っていたの」


「自分で決めたはずなのに、こんなに後悔するなんて……わからなかったのよ」



 彼女は何度も岬を訪れた。
 青い空の日も、暑い日差しの日も、雨の日も、荒れるような風の日も。




「あなたは遠い異国の地で、酷い私の事なんか忘れて……今頃は新しい恋を見つけているのでしょうね……」




 その日は長い嵐の後で、彼女は久しぶりに岬へと向かった。
 彼女の追憶と後悔は何度も繰り返され、あの日を振り返るだけで決して忘れることも出来ず、ただ遠い地を想い続けていた。

 まだ残滓の様に残っていた強い風が不意に吹き上がり、岬の先でいつもの通り物思いに耽っていた彼女の、雨水に濡れた小さな足先を攫った。




 淡い記憶の風景の中で、巻き毛と織りの美しいドレスの裾と、白い指先の赤い光が蒼に溶ける。




 ただ繰り返されるしかできなかった後悔が、『凝り』となった。
 取り残される寂しさと悲しみと深い自責の涙が、蒼い海に溶けていく。
 やがてそれが、重い重い『祈り』となる。

 水底に沈んだ祈りに、その主が耳を傾ける。嘆きと悲しみを聴き続けて、やがてそこは『澱んだ』。
 ただ悲しみに堰き止められて、どうか解放してくれと、叫ぶ。叫ぶ。

 少しずつ広がる淀みの悲鳴が、青い海を歪ませて、嵐を呼んだ。




 そこへ、一隻の客船が迷い込んだ。
 すでに操るものを失っていた船は、なすすべも無く淀みの祈りに捕らわれる。

 けれども悲鳴は嘆いた。ただ嘆いた。そこにあったのはとうに失われた命無き抜け殻であって、祈りを届ける術はなかったからだ。









『ここから解放して』










 開いた蒼い世界にぽつんと浮いた白い骨と、紅い石。
 小さな気泡が波に揉まれ、俺の頬を撫でるようにして上がっていった。

 導かれるように、そっと『思い出』にあった手よりさらにひとまわり小さな手に触れると、その感触を伝えるより早く、魔法の様に骨は崩れていった。
 それこそ、白い泡になって消えていく様に、音もたてずほろほろと。

 途端、彼女の居たあたりから、どくりと大きな波紋が広がった。
 直後死んだような紺碧の視界が、波紋を追うように鮮やかな蒼に染まっていく。光の帯が周囲を染め上げていくようなその様子に、ただ俺は目を奪われた。

 白い砂しかないと思っていた浅めの海底には、息を吹き返したような色が溢れている。
 激しい渦が解かれ、溶け、てなくなっていく。その流れと気泡の隙間から、遠く、壊れて沈んだ船の残骸が見えたけれど、それらはこの海の美しさを微塵も決して損なってはいないのが見て取れた。
 水底から上がり続ける新たな気泡が、また頬を撫でて勢いよく上に上がるから、つられるように上を見上げた。

 白く輝く水の網が一面を覆っていて、その色の変化が、嵐に染まった暗い空が一気に開けたせいなんだと知った。


 その白い光の中に、逆光になって何か黒く見えるものが下りてくる。ふたつ。



 そう認識する間に、その人影が一気に降りてきて、ようやく俺は、それが大切な友人たちなんだと気が付いた。



 伸ばした左手に、ふたつの手が絡んで、一気に引き上げられる。









「彼女は水底でずっと待ってたんだ。異国に行っちゃった彼の事、戻って欲しいって」


 激しい水音と共に、俺と、迎えに潜ってきたイーザとメルが、ほぼ同時に海面に顔を出したとき、真っ先に俺の目に入った空は、真っ青だった。
 水飛沫がきらきらと飛び散り。どこまでも抜けるような夏空に、白い雲が戻っていて、一面の波は穏やか。あの嵐や渦の気配は何一つ残っていなかった。
 あるとすれば、所々に浮いている幽霊船の残骸だけ。

 上がった息を整える間もなく、両側の友人たちに説教を食らった俺は、その勢いで説明を求められて、ぽつぽつと思い浮かぶ限りの『思い出』を語った。
 長いようで、垣間見た時間はほんの刹那の時間でしか無かったはず。
 触れなければ多分分からなかった、ただ切ない物語。

 途中から無言になったふたりと、話し終えた俺とで、沈黙が落ちる。
 波が板と浸かった身体を揺らす水音以外は何もない。ただ、抜けるような空を見上げた。

 何もなくなった。
 船は沈んだし、オルゴールは砕け、彼女は泡となって消えた。唯一残ったのは。
 大切に握っている掌の中に、小さなリングの感触がある。この緋い石だけ。



「本当に、とんでもない無茶をするな、お前は」

 沈黙の後、最初に出てきた声は、沈没船でも聞いた言葉だった。
 呆れが多分に含まれた青年の声に返す言葉もない。

「焦りました。僕が見つけた時には、イーザさんが飛び込む瞬間だったんですよ。ロープの残材握って、嵐の海ですよ?」

 隣で、海水で濡れた髪を邪魔そうに避けながら、ぽつぽつと続いたメルの声は少し恨みがましい。でも、

「そのまま一緒に飛び込んだだろ」
「……僕はその直前に助けを飛ばしてますので」

 その状況で瞬時に居ない俺が渦の下だと気づいて、一緒に飛び込む選択をしたんだ。
 とんでもない無茶をするのはお互い様だと思ったけれど、懸命に、口を閉じておいた。

「あ、助け呼んでくれたんだ。良かった」
「今更ですか……!? 何のために僕が……」

「船が無いもん。メル、精霊使って飛んでくれたんでしょ、有難う。おかげで、俺もイーザも命拾い」

 そう。船が無いってことは、目覚めてすぐにメルは自らこの船を探してくれたんだ。
 昏睡から起きたばかりでしんどかっただろうに、消耗の激しい精霊召喚の魔法を駆使して、海を飛んで俺達の位置を見つけてくれた。

「……船で魔法を使ったので、精霊の位置がわかってましたし、大方の方角は南だって知ってましたし……嵐もあれば、遠方でも……」

 何度かぽそぽそと重ねていたけれど、尻つぼみになり口をつぐんでしまった。
 ちらと見ると、珍しい拗ねたような顔だ。いつもの眼帯もしていないことに気が付いた。本当に、目覚めてすぐ飛び出してきたんだ。
 
「……おふたりとも助けに行くと約束しました。当り前じゃないですか」

「うん」

 笑い返してから、ずっと無言の反対隣りはどうしてるんだろうと思ったら、視線を飛ばす直前に視界の端で顔をそむけたのが見えた。
 盛大に海水に濡れた髪を邪魔そうにかきあげる。水を吸った外套がばしゃりとやや乱暴な音を立てた。
 コメントしたくないと言うように結ばれた口元で、だいたい感情が読み取れる。彼は不器用だからこういう場面はとりあえず黙るんだ。

 俺も目元に張り付いた髪を払って、板を枕にもう一度空を見た。少し目を凝らすと小さな住人達も穏やかに海風に遊んでいるのが見えた。
 今しばらく、のんびりと海面に浮いていれば、きっとすぐに船を手配した騎士団が助けに来るだろう。



 精霊の嘆きが消えた夏空は穏やかで、まだしばらく、青く高い。










--- Epilogue







「まじかよ、『幽霊船』に乗ったんだって?」
「本当に幽霊、居たんですカ?」

 夏は暑いルクスブルクでも、今は特に熱気に満ちているのは、港をそれた先、海岸沿いの細い砂浜。
 普段は海以外見るものもなく市場や港に比べれば静かなその一帯は、夏の暑い時期のみ観光客及び街の住人の憩いの場として、日夜問わず色とりどりの出店が並び異国の音楽まで入り乱れる観光地帯になる。
 この一帯特有の焼き付けるような日差しにも関わらず、増して華やかな賑やかさに包まれていた。

 臨時で造られているいくつかの簡易テラスの中の一つ、日を避けて冷たいものに舌鼓を打っていたら、暇を作って駆け付けてくれたシキとセイが身を乗り出してきた。
 どこから聴きつけたのか目を輝かせる二人に、レイは横で苦笑いを浮かべるメルと、変わらず無言で明後日の方を見ているイーザを見た。
 解決済みの案件、特に口止めをされているわけではないけれども……。

「なんていうか、幽霊になってたのは、メル?」
「は?」「え?」

 似てないけれど似ている兄弟の、そっくりな獣の耳が驚きと共に興味深げに動いた。



 あの後、無事騎士団手配の船に回収された俺達は、あちこちに駆け回って結構忙しかった。
 俺とイーザは騎士団に説明の後カンナさんの所へ戻って、報告と説明。
 メルはシフォンさんとイスファレスに戻って、やっぱり色々と報告に連れまわされたらしい。
 結局、あの幽霊船で眠っていた人々は一人残らず無事に目を覚ました。ただ、昏睡の長さによってはその後も治療が必要だったり、魔法に耐性の低い人にはアフターケアも必要で、先生は今でも変わらず忙しい。
 そんな中、メル本人は念のための休養必要と診断の元、しばらくルクスブルクへまた足を向けている。
 今度こそ、カンナさんのお屋敷の客室を3人仲良く借りて、ちょっとした観光客気分だ。



 興味津々と身を乗り出す二人に掻い摘んで経緯を話す。
 時折メルや、本当に時々イーザからの横槍が入りながらある程度話し終わると、

「なんつーか、開けてみればオバケでも何でも無いってのは拍子抜けだよな。つまんねイッテェ!」
「ロテギャ! ギヤレヤロムヤヤモレニレ ヘグク!?(兄さん! みんな下手したら海の底だよ!?)」

 シキ達も耳にしていた『幽霊船』の噂話の結末への感想に続けて、兄の悲鳴が上がる。どうやらテーブルの下でセイがふとももを強かかに抓ったらしい。
 この二人の様子も相変わらずだ。(セイの焦るとエルトシア語が飛び出るのも相変わらずらしい。落ち着いている時の共通語はかなり上達しているのに)

「そう、それでレイさん、その指輪は、どうしたんですカ?」
「ああ、指輪はね……」


 俺が海で唯一拾い上げた緋色の宝石の嵌った指輪は、意外とすぐに持ち主が分かった。
 思い出で見た彼女の外見や様子と、メルが港町で耳に挟んでいた行方不明の領主の娘の特徴が一致したからだ。

 街では行方不明とだけ噂されていた彼女は、許婚との挙式を近々に控えたある日に姿を消してしまった。
 誰かの誘拐か、あるいは他に好いた者が居ての駆け落ちか。そんな風に噂されていた様だったけれど、俺の知る『記憶』が本当なら実際は、事故だ。
 その事を伝えると、まさかの結末に、みんな泣き悲しんだ。
 その場で泣き崩れる人。ぐっと涙をこらえる人。その様子を思い出すとただただ胸が痛む。

「返したのか…? 家の人に?」
「ううん、最初はそのつもりだったんだけれど……許婚の人がいたんだ、その場に」

 挙式の日を前に姿を消した彼女に、彼はどう思ったんだろうか。
 知らせを知って、号泣した彼は、どう思っていたんだろうか。少なくとも、家が決めただけという態度には見えなくて。

「……事故だって知って泣いてるのをみたら、渡せなかった」

 そこで泣いてしまったってことは、彼女は自分が本当に好きな人がいると、許婚には話していなかったんだろう。
 もしあの日、悲しい出来事が起きていなかったら、彼女がどうしたのかは分からない。
 遠く異国へ旅立った幼馴染を想って、結婚を断る決意を固めるためにあの岬に居たのか、それとも、その想いを諦めるために立っていたのか。
 それは、彼女しか知らないことだ。




「だから、あの後岬に行って、投げたんだ、海に」







 力いっぱい投げた小さな指輪は、綺麗な放物線を夏の空に描いて、何度かチカチカと赤色の光を瞬き海に溶けていった。
 あれはもう思い出の品でしかなく、なんの祈りの思いも、魔法の力も残っていない。
 誰かが誰かを想っていたことの、その証でしかない。
 その持ち主になるべき人達は、二人とも蒼い海の底。







 その想いの行方は、この広い海だけが知っている




 









>> end >>


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