【 水底のオルゴールは追憶の緋を奏で・5 】




 きぃっと軽い音を立てて開いた扉は、滑らかなだった手応えだった。
 一般的な幽霊船のイメージは古く壊れたものだけれど、この船は違う。甲板の板は磨かれたように手触りがよく、扉を支える蝶番にもよく油がさしてあるのか動きは滑らかだ。
 やはり、現存している船へ何らかの魔法で飛ばされたのが妥当だろうか。
 そんなことを頭の片隅に浮かべていたけれど、開いた扉の向こうに溢れてきたものに、僕は予想外で呆気にとられるしかなかった。



 開いた扉を追うようにして鼻先にかすめたのは、暖かで美味しそうな料理の香り。次いで、賑やかな喧騒も空気を伝ってきた。
 背後の男も予想と違ったのか戸惑っている。
 音を頼りに磨かれた階段を降りて、狭いが埃っぽくはない船内を足音を立てずに進んでいく。船の構造上通路は狭く、なにか不測の事態が起こってからでは対応が難しいため、慎重に進むしかない。
 この狭い場所では、僕の風や雷の魔法は不利だ。ましてや、接近戦で使うような体術なんてまともに行使したこともない。

(声…男声も女声も、子供の声も聞こえる……)

 言葉の端々はよく聞き取れなくとも、溢れている笑い声でだいたいは性別が分かる。漂ってくる料理の香りから家族が食事を囲むような情景が浮かんだ。
 けれど、先ほどの同行者の言葉が正しいならつい先ほどが夜明けのはずだ。
 ……もしや、本当に幽霊(ゴースト)かもしれないと、眉を顰める。
 そうこうしているうちに、和やかな声が漏れる部屋の前に着いた。
 比較的大きな両開きの扉は、この船が貨物船や商船ではなくて、客船であることを伺わせた。耳を澄ませると、談笑の合間に食器を鳴らすような音も聞こえてくる。……この扉を開けて人々が居ればいいけれど、……もしも誰もいなければ、昨日のレイ君達に謝らなければならない。幽霊は居たよ、と。
 僕の緊張が伝わるのか、背後の同行者も固唾をのんで見守っている。

 念のため魔法を撃つ心の準備もしたまま、あえてノックはせずにそうっと扉を開けた。

 開けると、扉越しではない喧騒が広がり、そして、急に開いた扉と見慣れぬ珍客に、中は一度しんと静まり返った。
 それでも人の気配は消えていないし、視界にも十数人の人影を捉える。

 怪訝そうな視線が突き刺さるものの、敵意は感じない。ざっと見まわして数十名。大人が多い中、子供も一握りほど混ざっているようだった。
 見渡す限り属性の偏りもない、つまり、みんな人間なのが分かり、僕は一度息をついた。
 部屋の奥の方から、ひそひそと囁きあう声が出始める。突然船上に現れた不審人物と思われているのがよくわかる。良くない状況になる前に、説明をしなくては…。

「……驚かせてごめんなさい。僕たちは今朝この船に乗せられていて」
「あぁ! 君たちも同じか。それなら仲間だな」

 ひとり、代表の様な声で初老の男性が頷き立ち上がる。それを受けて落ち着いたように人々はほっと息を吐いた。
 仲間…?
 無意識に首をかしげていたのか、男が深く嘆息した。

「私たち皆そうなんだ。気づいたらこの船に乗せられていた。君たちと同じだよ。それに、私たち以外の人には会ったことがないんだ」

 その答えに、そうだ、私もと声が上がった。室内は広く、数十人はいる。

 操舵する人間がいるはずなのに、会ったことがないとはどういう事だろう?
 これはある種の誘拐で、拉致だ。乗った彼らは怒り不安になるだろうし、陸では大事件になる。
 それなのに、この和やかな食事風景はなんなのだろう。それぞれが困ったように話しつつも、どこか危機感がない。

「犯人を見つけられなくても、船の備蓄に限りがあるでしょう? どこかの港に停まれば、逃げられるのでは?」
「食べ物も水も補充されているんだが……誰も港に着くタイミングが分からないんだ。気づけばいつも海の上、だから皆降りられない」

 肩をすくめる男の言葉は、妙な話だ。
 もしそれが本当なら、港に着くタイミングで全員が意識を失っているか、別の手段で船に物資を運んでいるかになる。
 どちらにせよ、人の運搬の状況といい、やはりこれは何らかの魔法の案件だ。それもかなり大掛かりな。

「……操舵室に向かいたいんですが」

 ヒトの目には見えなくても、僕には別のものが見えるかもしれない。
 とにかく、ここに長く留まるわけにはいかない。最初に海岸で気を失った際、非常に【嫌なもの】を感じた。一時周囲から風の精霊たちが一匹残らず散らされるような、何か。
 アレが一つの原因ならば、少しでも早く脱出しなければならなかった。



 食事中だったにも関わらず、優しそうな女性が席を立つ。彼女の案内についていきながら、ぽつぽつと船の中の事を聞いた。

 ここはかなり大きな客船で、僕が最初に開けたのが食堂。全員は入れないから、二回に分けて人々は食事をとっている。
 船を仕切る人は誰もいないため食糧庫から選んだ食材で自炊をしている。
 客室は多数あり、いろいろな備品も含め全てが倉庫に補充されるため、生活には困っていない、と。

 そして、たまにではあるが、どうやら船を降りられた人もいるらしい。
 ただ、その瞬間のことは誰も覚えていないようだった。



 操舵室へ移動するには、一度甲板へ上がる。
 天候は変わらず良いようで、肌に柔らかな海風が当たった。髪をさらう風の精霊たちもいたって穏やかだ。それだけが異質な船内で唯一の救い。
 伝言を飛ばすことも考えたけれど、距離も場所も分からないため難しかった。どちらに飛んでもらえばいいのか全く見当もつかない。それに、穏やかなのに海風の精霊たちは無口だ。船の事を尋ねても、なんの応えもない。何度試しても穏やかな無言に、メルファは情報を得るのは諦めた。
 磨かれた甲板を横切り、もう一つの船倉への扉の前で、彼女は立ち止まった。


「操舵室はこの先でしょうけれど……開きませんよ。大の男数人がかりでも駄目でしたし、工具も歯が立ちませんでした」
「……」

 何の変哲もない鉄扉で仕切られた向こう側は、気配を読む限り無人だった。
 扉に触れてみてもひやりと冷たいだけで、特に魔法の気配も人の気配もない。固く閉じているだけ。
 ならいったい誰が舵を取っているのか?
 予想外に何の収穫もなく、無機質な鉄の扉を見つめていると、不意に、意識の端に触れる気配があった。

「………?」

 風向きが変わった気配を感じて、船倉の扉から離れて船首へと向かう。
 とまどった女性の視線を感じるけれど、僕の意識は選手の先、遠くへと引き付けられていた。
 静かに波を割っていくその先には、緩い風の抜ける海が広がっているだけ、だけれど……

(何だろう……)

 遠い先に、何かを感覚が捉える、大きい何か。



 じっと感覚を澄ませていると、突然にそれは『視界』に現れた。

「船……!」

 この船よりも、おそらく一回り小さい。
 航路がたまたま重なったのか、その船はまっすぐに進んでくる。

「よかった……! 近づけば移って助けが呼べる……!」

 大きな船同士が海上で接触するのは危険だけれど、ある程度の位置まで近づいてくれれば魔法で移れる。
 そしたら海図を見せてもらって場所を教えてもらい、そうすればいくらでも助けを呼べる。
 この船の全員を下すにしても、魔法を解くにしても、まずは位置を特定するのが最優先だ。

 海が穏やかなため、二隻はするすると近づいていく。
 僕は船影にもっとも近づけるよう、船首のぎりぎりの位置で相手の船を待った。
 ゆっくりと近づく船は商船のようだった。
 こちらからは目立つ合図ができないからと少し気が急いていたけれど、好都合なことに、甲板に人影がある。
 天気が良いせいだろう。きっと視界も良いはずだ。

「…気づいて……!」

 万が一にも、相手の船が舵を切らないよう祈るばかりだ。
 じっと縮まる距離を待ち、自分の風の距離を測り……この海の風の精霊たちはいまいち反応が薄いから、恐らくあまり長い距離は乗せてもらえない。
 そのぎりぎりの感覚はもどかしかった。

 けれど、そうやって相手の船を見つめていて、僕は意外なものに気が付いた。


「……まさか、レイ君とイーザさん……?」


 遠い甲板に、見覚えのある気配がふたつ。
 どうして船に、そんな風に思ったけれど、これはすごく朗報だ。二人になら直接言葉を届けられる。
 すぐに近くの精霊に現状を乗せて、船を停めて保護してほしいと遠い甲板に飛ばす。


 飛ぶ。
 精霊が海を越えて、飛ぶ。白い軌跡を視線で追う。





 離れた船の目前で、その華奢な羽が溶けるように消えてしまった。







  ◆ ◆ ◆






 雨風がどんどん酷くなる。

 イーザが怒鳴った後に、船はこの嵐の中でもわかるくらい、きしむ音を立てて舵を切ったようだった。
 風にあおられ、今にも船体がばらけるんじゃないかという鈍い音。
 けれど、見る限り進む方向は変わっていない。


 ぐんぐん近付く大きな船と、下手すると接触するのではと恐怖が沸き上がってきた。

「どうして曲がらないんだ…!?」
「渦だ」

 俺の誰に抜けたかわからない問いに、船の舵の行方などもう手を出せない彼が欄干の外、荒れ放題の海を示す。
 そちらを見ると、滅茶苦茶な白波だけだと思っていた海に、ぐるりと大きな流れができているのが分かった。
 灰色から墨色、最後に真っ黒へと変わっていく巨大な渦に、引きずり込まれそうな恐怖を感じる。
 同時に、神経の先に触るような違和感があって、吐き気が込み上げてきた。

「なにあれ…」
「荒れた精霊の起こす渦だ。自然の歪み。聞いたことがあるだろう、大陸南のルルノール・ララ」
「島ごと沈んでるっていう…?」

 大陸最南端の『黒き大渦』に飲まれた、かつての精霊族の第二の都市。
 それが本来の精霊が持つ自然の力、その暴走と破壊によるものだというのは、有名な話だ。
 精霊を操る魔法の本質が本来は人の手に余り、決して侮れないという戒めの話。

 普段見聞きする精霊を清らかな川の流れとするならば、なんらかの理由で生まれた淀みと、その淀みを解消するための突然の大雨と決壊が『歪み』。自然の持つ流れは、善悪に関わらず本来は人の手には及ばない。
 ただ、その決壊でヒトは死ぬ。都市が壊れ均衡を崩される。それを厭っての処置が『封印』だ。

 歪みや淀みはどこで現れるかはわからない。もしこれが小さなものならば、淀みの原因を除けば荒れは収まる。
 収まらない規模ならば……その『封印』は、騎士団の仕事だ。


「あれはまだ『小さい』がな。歪んだ精霊の声は周辺を侵す。耳がやられないうちに塞いでおけ。吐くぞ」

 彼も辛いんだろう。潜めた眉で、片耳だけでも覆っている。
 今ここで精霊の声が分かるのは俺達だけ。ひとから見れば、突然海上に現れた渦があるだけだ。
 耳から歪んだ金切り声のような音が入ってくる。精霊がこんな声を出すなんて初めてだった。
 いつもなら、吹き抜ける風や、微かなしずくや、揺らいで小さくはぜる火の粉のような、微かで綺麗な音なのに。
 脳を揺らされるようなそれは不快だったけれど、同時にひどく悲しかった。吐き気による圧迫だけではなく、苦しく胸が潰されそうな『悲鳴』だ。

 濡れそぼった髪も外套も、風で煽られて雨粒が飛び散る。
 
 商船はそれでもなんとか波に舵を取られず、必死に渦を抜けようとしていた。
 あとは運に任せるしかない俺たちは、とうとうその甲板が見えるほどの距離まで近づいた『幽霊船』を見上げるしかない。

 雨風の影響を受けないかのような船体はやはりぼろぼろで、人の気配は全くない。
 金切り声が耳を侵していく。


 幽霊船の折れたバウスプリットが、商船の船首を超えて、甲板に黒い波を押し上げた。


(ぶつかる…!!)








  ◆ ◆ ◆





「どうして…… まさか、結界?」



 弾かれるというより、溶けるように消滅したそれに、僕は混乱する。
 でも結界ならばきっと出られない。飛ぶ前にわかってよかったとも言える。

「どうしよう、せっかくの機会なのに……」

 けれど、僕の不安に反して、船はお互いにまっすぐに進んでいた。
 舵を切る気配もなく、もう向こうからも僕を視認できる距離。
 必死で身を乗り出して手を振った。声が届くかもわからないけれど、呼びかけてみる。
 結界がどこまで防いでいるのかはわからないけれど、見えてはいるんじゃないだろうか。この天候なら。それに、レイ君なら。

 船はどんどん距離を詰めて、逆にこのままではぶつかってしまう、そこまで近づいてしまった。

 衝撃に備えながら、でもこれはまたとない機会だと、すれ違う側の欄干に駆け寄って身を乗り出した。
 結界に触れるわけにはいかないから、声だけを張り上げる。

「レイ君! イーザさん!」

 もしかしたら、めいいっぱいに手を伸ばせば触れられるんじゃないかという距離まで近づいて、僕は妙なことに気が付いた。

 これだけ近ければ気づいてもいいのに、お二人はこちらを振り返らないし、それに、強い雨と潮の匂いがする。
 湿った風の香りは、嵐のものに似ていた。こんなに天気がいいのに、何故あちらの船からはそんな香りが?


 そうして、一瞬口をつぐんだ間に、遠目ではゆっくりに見えたのに、実際に近付くとかなりのスピードでお二人とは擦れ違ってしまう。
 彼らは全身を雨に濡らしているように水の気配を帯びていて、レイ君はぎゅっと耳を塞いでいる様にも見えた。
 まさか、そのせいで僕の声が聞こえないとは思えない。

 追い越して一気に距離ができる寸前に、振り返ったレイ君がこっちを見た…そう思ったけれど、
 ……何の応えもなかったから、諦めるしかなかった。


(見えてない…。結界のせいかな……)


 穏やかな風の海を渡って、船がするすると進んでいく。
 友人を乗せている商船は、あっというまに船尾を向けて、遠く離れてしまった。






  ◆ ◆ ◆






 俺が衝突の未来を予感して全身をこわばらせた、その直後。

 商船はぎりぎりで、舵を振り切った。



 こちらのバウスプリットの先端が、『幽霊船』の横腹を浅くえぐり、ガリガリと鈍い音が全体をきしませる。
 その音は、吹き荒ぶ風や波の音より何よりも恐ろしく聞こえた。
 けれど一瞬の圧迫の後に、船は沈むことなく擦れ違っていく。

 長いようで短い時間、通り過ぎていく半階分高い船体を見上げ、振り返った。甲板も欄干も風雨に晒されて腐り落ち、ボロボロで、今にも崩れそうだった。
 無人の帆船はそれでもどこか悠々とした姿で後方へと進んでいき、そして、不意にがくりとなにかを抜けたような衝撃が走る。

 嵐の雨風がいきなり収まり、恐る恐る見下げた波には渦の面影は跡形もなかった。
 突然の幕切れに振り返ると、けぶるような雨を連れた霧の姿が、ぼやけて空へ溶けていくところだった。




「助かった…」


 灰色の雲が切れて、眩しい光が落ちてくる。
 それを目に入れて、思わず足から力が抜けてしまった。

 完全に濡れ鼠で雨やら潮を吸った外套の重さも、今は気にならない。


「淀みに船が捕まったか、船に淀みが捕まっているのか、判断は出来ないな。……だが移動してるのは珍しい」

 外套を絞っての疲れた声に、俺は顔を上げた。
 まだ耳の奥にあの金切り声が残っている。

「精霊の話なら、俺たち精霊族のものだし、これ、騎士団に報告した方がいいよね? 手に負えないよね……?」
「……そうだな」

 騎士団と彼の溝は大きい。出来るだけ関わりたくないのは変わらず、あまりいい顔はしていないけれど、かといって、あんな『歪み』なんて俺達がどうこう出来るわけがない。
 ここは、専門家を呼ぶしかないはずだ。






 船は嵐で損傷を受けていて、次の港へ向かうのは難しく、一つ前の港へ戻ることになった。
 ルクスブルクからそれほど距離はない小さな港町。

 ほどなくしてたどり着いたそこで、俺たちは一度商船を降りてイスファレスの騎士団宛に手紙を出すことにした。
 まさか噂の『幽霊船』の正体が精霊案件なんて、怪談話がおかしな展開だ。

 港から緩やかな坂を上がり、郵便屋を探すうちに、俺は妙なことに気が付いた。

「なんだか、慌ただしくない…?」

 小さな港町にしては、馬車が多くて人も穏やかとはいいがたい。急ぎ足の人が多く、ついでに、やたらと自警団証の若草色コートが目立つ。
 どこか張り詰めた雰囲気に場違いな気もしたけれど、あまり他所事に首を突っ込むわけにもいかない。
 この町は人のもので、種族間の軋轢がどの程度なのかはわからないからだ。 

 人波を縫ってやっと見つけた郵便屋に入ろうとしたところで、



「あぁ、君たち、随分早かったね! 早馬でも飛ばしたのかい? でもよかった、待っていたよ……!」

 突然の声と歓迎に驚いて振り返ると、藤色の珍しい髪をした白衣の医師が、薄い銀縁の眼鏡の奥の目を半ば泣きそうに歪めて手を握りしめていた。



>> 6へつづく >>


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