Diverge -01-01-01




「それでも、生きているつもりなの?」


少女の声音は、ひどく重く響いた。
しんしんと冷え切った世界に、ただ静かに。
真っ白に。



-01. プロローグ-




見上げた空はどこも同じような、少し濁った灰色の空。


町の喧騒。行き交う名前も知らない人々。雑多な騒音。
大通りは華やかで明るい人々の笑い声が。
細い裏路地には、やせ細った野良猫が。
切り取ったような空の端は、空虚なほどに澄み切っていて。

メリアグレス国グラリス、ヒルタ通り一番街。
その喧騒の中に、少年は居た。






――とん!
……ぱさり。




「あら、ごめんなさい」

肩に走った衝撃。同時に香る、きつめの香水。

少年の意識が、切り替わるように茫洋とした感情の彷徨いから現実へと結びつく。

視線を上げると、背の高い女がこちらを振り返っていた。
はっとするほどに深いクリムゾンカラーの髪に、艶やかなルージュの口紅が、柔らかな笑みを刷いていて。

「いえ」

印象の強い女に少しだけ目を留めてから、答え、彼は足元を見た。
先ほど、何かが落ちた音がした。
衝撃の合間に確かに拾ったその音をたよりに、視線を地面に向けると、薄汚れたコンクリートの上にカードが一枚落ちている。見覚えのある色、形。拾い上げて何気なく表に返す。

「………。     …落としましたよ」

しばし、そこに書かれた内容に目を留めてから、少年は背を向けて何処かへと去ろうとした女を呼び止めて、カードを差し出した。
示されたそれに、女は一瞬驚いたように眉を上げる。
それから、するりと素早くそれを受け取った。乱暴ではなく、あくまで優雅に手の内に戻したそれを、彼女は大切そうに懐へと仕舞う。



「ありがとう、ぼうや」


何かを含むような嫣然とした微笑を残して、お礼の言葉を告げると人混みへと紛れて消えた。
その後姿を見送ると、女性のことも、先ほど見た『モノ』さえも、少年は心の奥に仕舞ってしまう。

白い基盤に、銀打ちの文字が細かく掘られ、証明写真が貼られたそれは市民IDカード。この国が個人を管理するための住民票のようなものだ。そこに打たれた情報だけでなく、カードを専用の機械に通せばその人物の家族構成も、過去の詳細な経歴さえも全てが筒抜けになってしまう。
そして、先ほど女の落としたカードは非常に精巧に、良く出来ていたけれど。

偽造されたものだと少年は見抜いていた。
もちろん、偽造は国家への裏切り。犯罪だ。



(関係ないな)



通報する気もない。興味も無い。関係が無い。
ゆえに、何も行動には起こさない。
たとえそれが、いずれ何らかの犯罪や騒動に発展するのだとしても。たとえあの女が、もしかしたらとても重要な犯罪者だったりしても。その身に降りかからなければなんてこともない。少年にとっては所詮対岸の火事なのだ。


その一枚のカードが後ほど、どれほど大きく彼女と、彼らと、少年を結びつける事になるかも、今はまだ知らなかった。





 * * *





「きゃーーーーっ どいてどいて!!」


甲高い少女の叫びに、何事かと振り返る町の人々。
そこを全速力で駆け抜けるひょろりとした男。数十メートル後方には、先ほどの悲鳴の持ち主である少女。路地を縫うように、人を掻き分けるように繰り広げられる鬼ごっこ。

「止まりなさい!掃除屋よ!」
「うっせぇ!!」

目深まで被ったキャップで顔を隠した男は、いい加減焦っていた。
簡単な小遣い稼ぎくらいのノリで、あまり客の居ない店を狙ったのに。
たまたま少女とおやじの妙な二人組み目撃されて、その上彼らはスイーパー(掃除屋)だと名乗って。…そのまま逃走劇に発展してしまった。

ちらりと背後をうかがえば、見た目以上にパワフルなのか、ぴったりと後を着いて少女は追ってくる。
さらにすぐその後ろには、がっちりとした軍人も顔負けの色黒の男。こちらはきゃんきゃんと吼える少女とは違い寡黙なようだが、その見た目だけでも只者ではないとわかり、少女以上に厄介なプレッシャーだった。

絶対に追いつかれてはならない。
自分の行動は『組織』とは一切関係が無いが、捕まってその顔に泥を塗るわけにはいかない。かといって、命令も無いのに、スイーパーといえど勝手に殺すわけにもいかない。
組織に属するとはそういうことだ。
なんとか、ふりきらなければ……。

男は必死だ。必死で、後方の二人を捲く方法を考え続ける。




男は見た目よりもずっと頭が回るらしい。
先ほどの小さな強盗未遂事件で銃を持っているのは確認しているのに、振り返って発砲しようとはしない。今はこうして追いかけっこをしているだけだから、多少迷惑そうな顔をしつつも、回りの誰もが知らない振りをする。
けれど、発砲事件となれば周辺の住民も黙ってはいない。すぐに誰かが通報して警察に回り込まれるのを知っているのだ。
だから、代わりに裏路地や障害物を利用して振り切ろうとするのを、少女は懸命に追う。

未遂といえど強盗行為。スイーパーの端くれとして、ここで逃がすわけにはいかないのだ。

「あ!」

と、前方で男の退路をふさいでしまったらしい老婆を、彼が突き飛ばすのが目に入る。
買い物籠を引いた老婆は、悲鳴を上げることもできずに弾き飛ばされた。

「おばあさん…っ」

慌てて駆け寄ろうとしたが間に合わず。
転んだ老婆と、倒れたカート。細い路地にカートの中身だった果物や缶詰がばらばらと転がった。
目前に逃走する敵の姿と、倒れ付した老婆の背中に、少女の中に一度大きな迷いが生まれる。

けれど、老婆に差し出そうとした少女の手の先で、脇から差し出された大きく力強い腕が、老婆の体を優しく起こした。

「ジオ…」
「ティセル、お前は行け」
少女の発言を制した低い声と、にっと緩く唇を歪める余裕の笑み。
「…うん…!」
それの促す事を正しく汲み取って、少女は逃げた男の方へと素早く体を返す。
その後ろで、色黒の男、ジオンが優しく老婆を気遣い、転がった果物たちを回収し始めた。
老婆のことはジオンに任せよう。

「…逃がさないんだから…!」
強盗未遂の上、か弱い住民を突き飛ばしての逃走に、少女の正義感はより一層燃え上がった。
ほんの少しだけ開いてしまった距離を一気に詰める様に、立ち止まりかけた足を再び踏み出す。
絶対に、捕まえる!



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